「負けると決めつけている」

やはり退避すべきだ。

私はロシアの侵攻前から何度も妻にキーウからの退避を提案したが、説得できなかった。そこで私はママ(義母)の家の近所に住む義妹夫婦の説得を試みることにした。

小学生と中学生の子供がいながら、避難を考えないのは理解しがたかった。彼らが決断すれば、妻の気も変わるに違いない。

「ぼくが言ってきたことがすべて現実になっていることは分かるよね」

私はそう切り出した。ここは東から迫るロシア軍に占領される可能性がある、市中心部を流れるドニプロ川にかかる橋が破壊されれば脱出路は断たれる、そしてロシア軍の占領がどんなものか想像できるはずだ。そう説いたうえで、決断を迫った。

「銃を持って戦うのでないならば、いますぐ動くべきだ」

2人は一晩考えて、結論を伝えると約束したが、翌日になっても返答はなかった。

「記者じゃない、当事者だ」ウクライナ侵攻開始直後、「あなたは何もしていない。記者でしょう? 書いたらどうなの」とウクライナ人妻から言われた日本人記者のホンネと葛藤_4
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ある夜、家でひと悶着(もんちゃく)あった。市当局から、大規模攻撃の可能性を示し、シェルターに行くよう求めるメッセージが入っていた。午後8時前、「用意をしよう」と妻に声を掛けると、ママがシェルターには絶対にいかないと言っているから家に留まるという。

見ると、彼女は壁の厚いバスルームの横の廊下に椅子を置いて座っていた。ママが動かなければ、みな動けないことは分かるはずだ。それとも、これがクルコフ(※ウクライナ人作家のアンドレイ・クルコフ)の言っていた、「ウクライナ人の個人主義」なのか。「くそ婆(ばばあ)」」と私は思わず日本語を声に出した。

「あまりに勝手すぎるだろう」

私は妻を台所に呼んで文句を言った。

「どうしろっていうの? 無理やり連れて行くわけにはいかないでしょう」
「そもそも、みなで(ポーランドとの国境近い)西部に避難すべきだったんだ。2週間前から私はこの事態を警告しただろう」

すると、妻はいままでため込んでいた気持ちを露わにした。

「あなたムカつくのよ。ウクライナ人をまったく信じてないでしょう。はなから私たちが負けると決めつけている」

そしてこう続けた。

「私は軍に献金しているし、ロシアへのサイバー攻撃も試してみた。あなたは何もしていない。記者でしょう? 書いたらどうなの」

私はまず、サイバー攻撃に絶句した。しかし、彼女の言ったことは図星だった。

私はロシア軍の占領は時間の問題と考えていたし、ママの家に移動してから、記者の仕事を放り投げたのも事実だった。中心部で取材しなければ、記事を書けないとふて腐れていたところがある。

文/古川英治 写真/shutterstock

#2『ロシア軍占領地での拷問の実態「私が泣き叫ぶのを見たがっていた」24時間監視、ペットボトルに排尿…26歳ウクライナ人女性が受けた暴力の数々…手と足の指にコードを結び、電気ショックも』はこちらから

#3『侵略者に利するゼレンスキー政権批判をためらった記者のジレンマ。ウクライナ在住の日本人記者も「いいロシア兵もいた」という記事は書けなかった。反汚職で新たな展開も』はこちらから

『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』(KADOKAWA)
古川 英治 
「記者じゃない、当事者だ」ウクライナ侵攻開始直後、「あなたは何もしていない。記者でしょう? 書いたらどうなの」とウクライナ人妻から言われた日本人記者のホンネと葛藤_5
2023/8/17
¥1,760
304ページ
ISBN:978-4041131350
ウクライナ人の妻を持つ日本人ジャーナリスト。人々が戦い続ける理由とは

第一章 恐怖の10日間 ―2022年冬
「君はどうするの?」
ルビコン川
私は当事者だ
「負けると決めつけている」
「我々の土地だ」
ゴーストタウンのオアシス
妻の決断

第二章 独りぼっちの侵攻前夜 ―2021~22年冬
現実を直視しているのか?
頼りになる取材先
「2日で陥落」
「半分殺す」
「準備はできている」のか?
これが日本だったら
最後の晩餐

第三章 ブチャの衝撃 ―2022年春
戦争と平和の間
君が正しかった
ジェノサイドの現場
恐怖ではなく怒り
ママとの再会
祝福は空襲警報
市民の抵抗疑わず
初めて団結した町
瓦礫の宮殿
地下の暮らし

第四章 私の記憶 ―2004~19年
広場を埋め尽くした市民
マイダンを死守した「コサックの伝統」
麻薬と冷笑主義
「反ロ記者」
「私たちを見捨てたのでは」
マリウポリの子供たち

第五章 コサックを探して ―2022年夏
陽気な兵士
泣くほど美味いパン
農業という生き方
敵を笑い倒す
勝利への貢献
ウクライナのレモネード
ライフ・ボランティア・バランス
発起人は民間人
「ハッカー」と接触

第六章 民の記憶 ―2022年夏
ママの生家
政治の話はタブー
生存者の証言
くたばるのを見るまで
かき消された歴史
最高のコーヒー
一晩で40発
ヴィバルディの響き
クールな市長

第七章 パラレルワールド ―2022年秋
ウクライナと日本の距離
初めての楽観
歴史家の疑問
早く帰りたい

第八章 ネーションの目覚め ―2022~23年冬
真っ暗な街
地下室の恐怖
ヘルソン行きの車掌
最年少の閣僚
「日本より進んでいる」
「勝利の世代」
成長した「ハッカー」
二度目の記者会見
もう1つの戦い

あとがき 
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