二転三転した、神宮球場ナイター設置計画
早稲田大学と慶應大学による「早慶6連戦」が、今もなお語り継がれる名勝負となり、野球史に残る伝説となったのは、両校が紡いできた伝統と歴史によるものであり、選手たちが全力を尽くした結果であることは間違いない。
しかし、別の見方もできる。
当時の神宮球場には照明施設がなかったため、第4戦、第5戦はいずれも日没コールドゲームとなり、決着がつかなかった。現在の設備であれば、引き分け再試合という決着は考えられず、第6戦までもつれ込むこともなかったはずだ。
1998(平成10)年、明治神宮外苑が発行した『明治神宮外苑七十年誌』を手に取る。巻末の「年表」によると、神宮球場の照明設備が稼働したのは1962(昭和37)年6月となっている。つまり、「早慶6連戦」の2年後ということになる。他の資料によれば、自ら資金を調達し、「独自の力をもって、これを完成した」ともある。
1962年4・7 正面スタンド近代化および増改築竣功式
6・8 夜間照明設備竣功清祓式
6・9 ナイター設備点灯式
6・10 ナイター試合挙行。東映―大毎
しかし、さらに資料を読み込んでいくと、その実現までには紆余曲折があり、ナイター敷設については、「二転三転した末に、ようやく一応の決着を見た」と表現したくなるほどの混乱の末の一大事であったことがよくわかる。
当初は、「早慶6連戦」が行われた60年春にナイター設備が完成する計画だった。しかも、東京芝浦電機株式会社――東芝――が無償で寄進するという話が進んでいたのだという。実際にその前年である59年12月22日には明治神宮と東芝との間で、寄進に関する契約が締結されている。
計画通りに進んでいれば、60年春にはナイター設備が完成しており、同年秋の東京六大学において「日没コールド」という結果はなかった。そうなれば「早慶6連戦」も生まれていない。
歴史の歯車が少しずれたことによって、伝説の名勝負は誕生したのである。
では、なぜこの寄進計画は撤回されたのか?
どうして、当初の計画よりも2年も遅れることになったのか?
一連の出来事の中心人物となったのが、後に明治神宮外苑長となる伊丹安廣である。