「自由」と「平等」の対立
谷口 今日は大澤先生の本を読まれて来てくださった方も大勢いらっしゃると思います。先生の研究は非常に多岐にわたっていますが、ご自分がしていることを何とご説明されていますか。
大澤 それ、困るんですよね(苦笑)。ただ、自分の中では、ある意味、ひとつのことをやってる気持ちもあるんです。たとえば今AIというものについていろいろ興味を持っていて。「AIを鏡にして人間のことがわかる」みたいなことがある。
谷口くんの話に近いところで言うと、ひとつの社会構想というか、僕らは社会主義や共産主義に対する夢を失ってしまって、その後、社会についての大きな展望をもう持てないわけですよね、この社会以外に。けれどもこれほど閉塞感がある状態もない。その時にどう考えればいいか。そういう問題含め、いろいろありますが、自分の中では意識してやってるわけじゃないけれど、自然といろんなことがつながってくる。「社会学をやっている」としか言いようがない。「人間について考えている」みたいなことですかね。
谷口 資本主義とか、自由とか、そういうことがテーマになっていることも多いですよね。
大澤 そうです。今僕らが生きている社会を一番基本のところで捉える際に、どういう言い方が最もいいかと考える時、僕の先生だった見田宗介先生(みた むねすけ、社会学者。ペンネームは真木悠介)は「近代社会」という言い方をしました。しかし今「近代社会」って言うと、内容がわかりにくい。
見田先生が「近代」という言葉を好んだのは、当時は資本主義の体制と社会主義の体制(東西冷戦構造)があったので、そのなかで「近代資本主義」と言ってしまうと、「西側の体制」しか意味しないようなイメージもあったと思うんですけれども。
でも、ある時代からの我々の社会の「資本主義」というのを、経済だけで考えてしまうと、少し弱い。むしろ経済は大きな氷山の一角で「我々の文化も含んだひとつの体系全体としての資本主義」と捉えると、現代をかなり基本のところから見ることができる。だから「資本主義」という言い方を使うんです。
あと、自由という問題は、今日の話もすごく関係ありますけど、こう思うんです。
20世紀が終わって、私たちは今21世紀にいるわけですけど、僕なんかの場合は人生の前半分以上が20世紀だった。その20世紀という時代に我々は何を一番の教訓として得たのか、と。それをものすごくざっくり言うと、やっぱり「自由な社会」以上のものはない、と。
「自由を、自由以外のものを理由にして抑制する」ということが、いかに悲劇的な結果を生むか。
具体的に言えば、冷戦というものがあった。冷戦とは、19世紀の初めくらいに近代が出てきた時に、自由と平等ということが言われた。そのふたつは、初めはあまり矛盾すると思われなかったんですが、どちらを優先させるかと考えた時、「平等の方を優先させる」と、社会主義となるわけです。ざっくりとした話。それに対して「自由の方を優先させる」と、資本主義となる。
つまり「20世紀とは、冷戦があって、それが終わった時代」なんです。それを教訓として見た時に「やはり自由というものが、社会というものを考える上で、追求すべき最大の価値だ」となった。
それがまた21世紀になって、別の意味で「人間に自由というものは、そもそもあるのか」というような大きな問題があるんですけどね、本当は。














