判断の帰属先としての「第三者の審級」
谷口 大澤先生は、「自由というものが至高のものだとしても、その自由というのはそう簡単に成立しなそうだ」と、私が受けていた「現代文明論」という講義でおっしゃってましたね。
当時、先生は『〈自由〉の条件』という本を書かれていて、本を書くにあたって考えられていることをずっとつぶやき続けるという授業でしたが、「自由というものが成立しなそうな時には、どうやったら成立するのか」とお考えになっていたと思います。
いろんな分析をするにあたって、最終的には「第三者の審級」という概念をいつもキーにして分析されているのかなと思うのですが、それについてご説明いただけますか。
大澤 これは難しい。でも、ものを考えるということの、一番のクリエイティヴィティーのポイントになるのは「概念を発明する」ということ、これがすごく重要なんです。概念があって初めて考えることができるから。ただ、「第三者の審級」というのは、発明しようとして作った概念ではなくて、自分が考えているうちに自然と出てきた言葉なんです。
「審級」というのは、割に法律的なメタファーになっているんですが、ものすごくざっくり言うと、日本人にはピンと来ないところもあるんですが、本当は神とか宗教とかの問題なんです。
ある有名な社会学者の言葉があります。「宗教が社会現象なのではなくて、社会が宗教現象なのだ」と。つまり、僕らが意思的に何かの信仰を持っているかどうかは別として、人間が社会というものを営めているのは、広い意味での宗教現象なんです。有名な社会学者、たとえばマックス・ウェーバーとかデュルケムとかは、みんな宗教社会学者なんですよ。宗教社会学が即、社会学なんです。
そういう宗教的な現象というものを考えるときに、どういう言葉で考えていけばいいのか。たとえば特定の宗教で「アッラー」とか、そういう言葉を使ってしまうと、その宗教のことでしか考えられないでしょう?
宗教的な現象を一般的に捉える時、日本人でも普通に馴染みのある「第三者の審級」の一番プリミティブな形態は、たとえば「空気」です。「空気を読む」と言うときの空気。日本人にとっては「空気違反」ほど悪いことはないんですよね。「空気を読めない」というのが。でも「今、空気、何ですか?」と誰にも聞いてはいけない。誰かの判断じゃないんですよ。この場を自然と作っているものなんです。どの人でもない第三者的な判断で。それが、法律以上に強い拘束力を持っている。
でも、逆に言うと、空気っていうものを乗り越えるためには、「空気よりも強い第三者の審級」が必要であったりする。あるいは「第三者の審級」自体も、乗り越えの対象なんです、僕にとって究極的には。
それを考えるため、つまり、社会を一般的に考えるために、我々が社会的な判断をするとき、「何が正しいか」とか「何が望まれているか」とか、そういうことを考えるときに、「何を空気が望んでいるのでしょう?」みたいになる時の、その「判断の帰属先」なんです。それが「第三者の審級」なんですよ。
谷口 ありがとうございます。この、ちょっと難しい概念を先生にお話ししていただいたのは、公共訴訟の現場とかで、時々「あれっ? これは『第三者の審級』じゃないか?」みたいに思うことがありまして、その意味でもちょっと、ご説明いただきました。














