『北風と太陽』の旅人は自ら上着を脱いだのか? 脱がされたのか?
ここまでは、意識的なプロジェクション/無意識的なプロジェクションについて考えてきましたが、実際の現象においては、そんなにきれいに分かれるわけではないことにも気づきます。
落語やモノマネの鑑賞などでおこなわれているプロジェクションは、意識的なものと無意識的なもののあいだにあるようです。
そこに本物の蕎麦はないとわかっているけれど、噺家の仕草や道具立てによって、自分のなかで蕎麦に関する表象を再構成し、噺家の仕草や道具立てにそれを投射することで、噺家があたかも本当に蕎麦を食べているかのように見る/見えるというのが、ここでのプロジェクションです。
また、目の前にはモノマネ芸人のコロッケさんしかいないとわかっているけれど、コロッケさんのモノマネによって自分のなかで美川憲一さんに関する表象を再構成し、目の前にいるコロッケさんのモノマネにそれを投射することで、コロッケさんが本物の美川憲一さんよりも美川憲一であるかのように見る/見えるというのも同様です。
これらのプロジェクションは、噺家やモノマネ芸人の技量も重要です。上手な噺家や芸人であれば、鑑賞者の表象は再構成するまでもなく的確に喚起されます。鑑賞者が目の前の噺家や芸人にそれをうまく投射できたなら、落語やモノマネを存分に楽しむことができるでしょう。
それは、噺家やモノマネ芸人が情報の内容や配置といった状況を、仕草や道具立てや化粧や表情などで上手にコントロールしているからです。
そのように考えると、意識的なプロジェクションを他者に強要してもうまくいかない一方で、情報の内容や配置といった状況を制御できれば、他者に無意識的なプロジェクションをさせることは可能です。
たしかに、霊感商法やオレオレ詐欺、陰謀論や戦争時のプロパガンダなどは、他者がある意図をもって情報と状況をコントロールすることによって、主体が無意識のうちになんらかのプロジェクションをするように仕向け、こころと行動を操っているのだといえます。
イソップ寓話にある『北風と太陽』のように、旅人の上着を脱がせるには、強風でむりやり剥ぎとろうとしてもうまくいかないけれど、太陽で照らして暑がらせることで自分から脱ぐようになるというわけです。
この行為はプロジェクションとは関係がありませんが、他者が状況をコントロールすることで、他者の目的に向けて主体の能動的な行動を操っている例そのものです。
私たちは自分で思っているよりも、自らの意思のみで判断したり決定するような能動的な行動は、案外に少ないのかもしれません。
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