選手の権利を飛躍的に向上させたFA制度
WBCでの日本代表の優勝やメジャーにおける大谷翔平の活躍を見るにつけ、この隆盛をもたらしたみなもとについて考える。それは1985年に産声をあげた。プロ野球選手会労組のことである。
同労組設立以前のことを田尾安志(初代楽天イーグルス監督)はこう言った。
「華やかに見えるプロ野球の世界ですが、実はがんじがらめで、選手が行使できる権利といえば辞めることしかなかった」
機構側が作成した統一契約書は、圧倒的に選手側に不利な内容になっていた。中日の選手会長としてチームメイトの要望を粘り強く球団側に伝え続けて来た田尾は、それを当時の球団代表にうとまれ、4年連続リーグ最多安打という実績を持ち、ファンにも愛されながら、キャンプインの直前に西武にトレードに出された過去を持つ。
ドラフト制度以降、職場とする球団を選択する自由はプレイヤーにはなく、極めて恣意的な理由で放逐されるか、飼い殺しにされてしまった例は少なくない。
これが、85年を境に劇的に変わる。選手の権利が格段に向上したのである。FA制度が認められ、年俸が飛躍的に上がり、移籍も活性化した。それに伴いセ・パの格差が埋まった。
何より大きいのは、選手の意見が機構側に届き、プレーをする側の主体意志が明確に発信されるようになったことである。
2004年の球界再編成に向けて「たかが選手が!」と渡辺恒雄読売会長(当時)に侮辱された古田敦也会長が決行したストライキ。さらには、東日本大震災が起きた2011年に新井貴浩井会長(現広島カープ監督)が文科省に掛け合って実現させた公式戦開幕延期。
これらは選手会労組という組織の基盤があればこその結実であった。意見が通れば、当然ながら選手のモチベーションは上がり、パフォーマンスの向上にも繋がる。
選手の権利はいかにして勝ち取られたのか、エポックメイキングとなったこの「労組」の礎を紐解いていく。
「そりゃあ、苦労したもん。成立させるには、ものすごい時間を費やしたし、とにかく水面下で事を運ばなきゃいけなかった。それが大変だったよ」
選手会労組設立の立役者、初代会長の中畑清は、自宅でのインタビューで38年前の記憶を手繰り寄せた。