日本ハムで7年間二軍暮らしだった男
東京・神保町の瀟洒なビルの5階にあるオフィスで西井敏次から名刺を受け取った。霊園や別荘の事業を司る企業名の下には「代表取締役社長」の肩書が座っている。
プロ野球選手会労組の立ち上げにおいて中畑清の右腕として奔走した人物は、ことを成し遂げると、長嶋弁護士の紹介で現在の会社に就職。地道に勤めあげて、ついには経営トップのポジションに就いていた。180センチを超える体躯をシックなスーツが包んでいる。
ペットボトルの緑茶を勧められて腰を下ろすと、実直そのものという物腰で西井は語り始めた。左打ちの外野手で、20歳で日本ハムに入団。島田誠と大宮龍男が同期だった。
「プロでは結局、7年間二軍暮らしでした。1982年にクビになって、さてこれからどうしようかと考えているときに、退団金の共済制度に入っていたことを思い出して、受け取りの手続きをしようと選手会の事務所に電話をしたんです。
そうしたら、事務局長の山口恭一さんが出られて『お前、現役を辞めたんなら、うちで働けよ。選手出身で誰かひとり入れたかったんだ』と言っていただいたんです。ちょうど選手会の事務局が社団法人化(1980年認可)をした直後だったんですね。松原誠さんと柴田勲さんが会長と副会長で、村田兆治さんも役員でした」
西井は野球界への恩返しのつもりで職員として選手会に就職した。高校卒業後に社会人経験もしていたので、選手から事務方に変わることにそれほど違和感はなかった。
選手会を社団法人にした目的は、共済制度をしっかり確立することと、組織としての認知度を上げることにあり、それはすでに達成されていた。
しかし、肝心の選手の権利獲得の観点から言えば、脆弱なままであった。山口事務局長は銀行出身でお金の流れについては熟知していたが、労使交渉については素人だった。
「(プロ野球)機構側からキャッシュが入って世間から認められたのは第一歩でしたが、何かを提起するたびに『社団法人は要求する団体じゃないから』と言われたんです。
ロッテのキャッチャーだった高橋博士さんが不当解雇された(昭和58年1月)ときも動いたのですが、『そういう交渉はあなたたちの団体では不適格だよ』と言われて悔しい思いをしていました」
やはり労働組合を作るしかない、という意志が統一された。