装うのが面倒くさくなったのではなく

毎年、夏の名残の陽射しにひんやり冷たい風が混じり始めると、あの狭いエレベーターにこもっていた生温い空気と、せわしなく動く白い手袋を思い出す。あれから五年ばかりが過ぎ、最近はようやく、通帳残高を眺めても心が千々に乱れるといったことがなくなった。

そうなるまで途切れずに仕事を頂けたのはありがたい限りだし、我ながらけっこう頑張ったほうじゃないかと思う。いや、よくぞここまで頑張った、と褒めてやっていいと思う。

いまも手もとに残る貴金属のうち、換金できる類いのものは数えるほどしかない。あのぎりぎりの瀬戸際でさえどうしても手放せなかった時計が三つと、それに指環とネックレスが一つずつ。それぞれ、作家になって初めての本の印税で買ったものだったり、特別な旅の思い出と結びついていたり、とある節目の記念に贈られたものだったり、大切なひとから受け継いだものだったり……。

それ以外に新しい指環や時計を手に入れたいと、全然思わなくなった。女性誌に素敵な広告が載っていても、昔のようには物欲が発動しない。

二度目の夫との離婚と借金、そして“金目のもの”をかき集めて出向いた渋谷の買い取りショップで一番高値がついたもの〈村山由佳デビュー30年〉_4
写真はイメージです
すべての画像を見る

けれどそれは、装うのが〈面倒くさい〉からではないのだ。自分を底上げしてくれる持ちものを吟味し、そのつどアップデートしてゆくのも大人の女の醍醐味ではあろうけれども、縁あって手もとに留まったものをひたすら大切に慈しむことも、人生を深く味わう術のひとつなのじゃないか。

今ではそんなふうに思うようになった。

文/村山由佳 写真/shutterstock

#2 3万円のダイバーウォッチ、ロレックス、BABY-G、SEIKO。作家・村山由佳を通り過ぎた男たちと時計の思い出

記憶の歳時記
著者:村山 由佳
二度目の夫との離婚と借金、そして“金目のもの”をかき集めて出向いた渋谷の買い取りショップで一番高値がついたもの〈村山由佳デビュー30年〉_5
2023年10月26日発売
1,980円(税込)
四六判/244ページ
ISBN:978-4-8342-5377-1
村山由佳デビュー30年 記念碑的エッセイ
12の季節をめぐる記憶に引き出され、初めて明かすほんとうの想い。

【内容】
想い出をひもとくと、人生の味わいはぐっと深まる。
デビュー作『天使の卵』がベストセラーとなり、南房総・鴨川でのゆたかな自給自足生活。出奔そして離婚、東京での綱渡りの日々。常識はずれな軽井沢の家で新たな生活、3度目の結婚──。そんな村山由佳の大胆な生きざまと、作家としての30年を支えてきたものとは? 季節・猫・モノをキーワードにひもとく、極彩色の記憶たち。人気作家になって抱えた葛藤、編集者との関係、20年隠してきたある猫の秘密、過去の恋愛の数々など、初めて明かすエピソードも満載。
年若いあなたの肩を「案外、大丈夫よ」とやさしくたたき、人生後半戦のあなたに「この先が楽しみ」と思わせてくれる、滋味あふれるエッセイ集。

・特別書き下ろし掌編小説16ページ収録!
・軽井沢暮らしや愛猫たちの写真も満載!
・貴重な著者直筆コメント多数収録!
amazon 楽天ブックス honto セブンネット TSUTAYA 紀伊国屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon