小説・恋愛・愛猫・母親……
作家生活30年を振り返って

作家生活30年の節目を迎えた村山由佳さん。最新刊『記憶の歳時記』は、季節ごとの「記憶」を通じ、作家・村山由佳を形づくってきたものをひもといていくエッセイ集です。一方、このたび文庫化された『命とられるわけじゃない』では、自身の人生に不可欠だという猫とのドラマが綴られています。村山さんの人生観と「不可欠なものたち」に満ち満ちた軽井沢のご自宅で、これまでの30年と現在についてうかがいました。リニューアルしたばかりという執筆部屋も初公開!

聞き手・構成=高梨佳苗/撮影=露木聡子/ヘアメイク=加藤志穂(PEACE MONKEY)

小説・恋愛・愛猫・母親…… 作家生活30年を振り返って『命とらえるわけじゃない』『記憶の歳時記』村山由佳インタビュー_1
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きらめく「青春恋愛小説界の彗星」の舞台裏

―― 当時を知る編集者は、90年代半ば、村山由佳さんの登場は彗星のようだったと言います。デビュー作『天使の卵』がベストセラーになり、人気シリーズ『おいしいコーヒーのいれ方』もスタート。青春恋愛小説の新旗手として若い読者の心をつかみ、NHKの朝の情報番組では旅コーナーのレポーターを務め、女性誌では時代を先取りした田舎暮らしエッセイを連載されて……傍目にはきらきら順風満帆な作家生活の始まりに見えますが、ご自身の感覚としてはいかがでしたか。

 あのころはとにかく無我夢中でした。最初の担当編集者Sさんがものすっごくパワフルなブースターのような方だったので、私はロケットみたいに飛ばしてもらっている感じでね。月のうち1週間は旅レポで出かけていて、連載を持って、年に3冊単行本を出す、という生活は確かに忙しかったですけれど、作家はみんなこんなものなんだろうと思っていたんです。今みたいにSNSとかで他の作家の様子を窺えるような時代ではなかったし、ましてや私は情報の孤島のような鴨川(南房総)に住んでいたから。親鳥のSさんに、孵ったばかりのヒナの私は当然のようについていった。
 Sさんとはその後いろいろあって、私にとって決定的だったある出来事については、『記憶の歳時記』で初めて書きました。でも、やっぱりあの方がいなかったら今の私はないと思いますし、私はずっと編集者に恵まれているんですよね。まだバブルの残り香があった時代のおかげもあると思います。

小説・恋愛・愛猫・母親…… 作家生活30年を振り返って『命とらえるわけじゃない』『記憶の歳時記』村山由佳インタビュー_2
「かーちゃん」にぴたりと寄り添う、〈お絹〉こと〈絹糸〉。背景には壁一面の本棚とキャットウォーク

―― 年3冊ペースで刊行していた単行本のうち、1冊は「おいコー」(『おいしいコーヒーのいれ方』)ですね。完結まで26年にもわたって、切ない青春恋愛のシリーズを書きつづけるというのは、容易なことではなかったのでは……。

 書き始めたときは等身大だった主人公たちを、自分自身が歳を重ねていく中でどう描いていくか、というのは相当苦労しました。実は、文芸のほうで3冊ほど本を出した時点で、編集者や新聞記者さんたちから「ライトノベル的なものは早くやめたほうがいい」という助言も多くいただいたんですよ。そういうものを書いていると軽く見られて、文学賞をもらえないと。でも、「おいコー」を読んで「小説って面白いんだ」と思ってくれて、私のほかの小説に手を伸ばしてくれる読者がとても多かったんですよ。ふだん本を読まない人にも面白いと思ってもらえる、私をこれまでたくさん救ってくれた小説というものの間口を、もっと広げる可能性がある。だから私はこれを捨てるわけにいかない。続けてきたのにはそういう意地もありましたね。続けてきてよかったし、長年愛してくれた読者に満足してもらえる形で終わらせることができて、本当によかったなと思います。

作家に擬態している、という不安がずっとあった

―― 無我夢中で走ってこられた「青春恋愛小説の名手」としての作家業と、鴨川での素敵な田舎暮らし。それが10年ほどで破綻を迎えますよね。鴨川を飛び出して離婚を経て、性愛を正面から描いた小説『ダブル・ファンタジー』が大きな話題となりましたが、やはりこれは大きな転換点だったのでしょうか。

 その前に、直木賞の受賞後第一作として『天使の梯子』を書いたときが最初の転換点だったかな。性的なこと、体から始まる恋愛を書こうと、第一章まで仕上げたところで、当時私の原稿を全部読んでいた最初の旦那さんに猛反対されたんです。『天使の卵』の続編として読者が望んでいるのはこういうのじゃない! って。でも私は脱皮したくてしたくてしょうがない。毎日大げんかをして、結局、私は意思を通せなかった。今となってみれば、『天使の梯子』という作品にとってはあのような形に落ち着いてよかったと思うんです。でも、物書きとしての私自身にとっては不完全燃焼感が残ってしまった。それで、初めて自分自身をまな板に載せるような小説を書こうと挑んだのが『ダブル・ファンタジー』でした。
 それまでは料理をするみたいに、こういう味わいのものを食べてもらいたいから素材はこれにしよう、どう切ってどう火を入れよう、そういう書き方をしていたんです。「今回はよくしみたおふくろの味にしよう」とか、狙う味わいはいろいろでしたけれど、毎回共通していた考えは、奇をてらい過ぎず、誰もが「ああ、おいしかった」と感じるものにしようということですね。

―― そんなシェフ・村山由佳が、『ダブル・ファンタジー』で初めて自分自身を題材にした。どんな味わいにするかは決めていたのでしょうか。

 いいえ、まったく。初めて結末を決めずに、ストックもほぼない状態での週刊誌連載でした。自分を素材にどんな料理ができるのか、私自身が一番ハラハラドキドキしていました。だから、今読んでもしばしば生っぽすぎるところがあったりするけれど、そういうところもひっくるめて過渡期の作品として、少なくとも私には必要だったんでしょうね。
 この本は、読者からのレビューの賛否が真っ二つに割れたんです。それまでの本は、面白かった、切なかった、泣きました、といったおおよそ想定内に収まっていて、それを見て「狙い通り伝わった、よかった」と受け止めていたんです。だから、こんなに評価が割れることは初めてで。最初は凹みましたけど、悪い評価もこれだけの熱量で書くにはずいぶん熱心に読んでくれたんだなぁと思えてきました。凹みますけどね(笑)。

―― 結果として『ダブル・ファンタジー』は文学賞をトリプル受賞し、作家としてさらに大きく飛躍されました。ところが『記憶の歳時記』には、当時の心境がこう書かれています。「ベストセラーになっても文学賞をもらっても、もちろんそのつど嬉しくはあったけれど何かこう、大きく誤解されているのではないかという不安が消えなかった。(中略)じつは私には才能なんかろくになくてただ作家っぽく擬態しているに過ぎないのに、いったいどうしてバレないんだろう、いつになったらバレるだろう、そう思えて苦しかった」。これには仰天しました。

 WEB連載でこの回が公開されたときに、デビュー以来の長年の読者からも「後ろに倒れるくらいびっくりした」と感想をもらいました。でも、掛け値なしの本音なんですよ。
 だまそうと意識しているわけじゃなくて、私は「ふり」や模倣をするのが上手いんです。絵でも刺繡でも音楽でも、なんとなく器用にまねをして、上手くやることはできてしまう。でも、本物になったことは一度もなかった。物書きも同じで、職業にはできたけれど、どこか本物じゃないんじゃないか、という不安が常にあって。『風よ あらしよ』を書いて吉川英治文学賞をいただくまでは、ずうっとそうでしたね。あの作品を書き上げて、これは自分にしかできない仕事だと、初めて心の底から自分の作品を誇りに思えたんです。だから今は、ようやく「本物の」作家としてリスタートしたところ、という感覚でいますね。