準々決勝後、田臥が高熱でダウン
当時のバスケットボールはセットオフェンス――いわゆるサインプレーのようなシステムが主流だったが、能代工はフリーオフェンスだった。攻撃のタクトを振るのは田臥で、エースが仕掛けてスペースを作ることで菊地と若月が自分に有利なポジションを確保でき、得点を量産できていた。
だが、その大黒柱が、鳥羽との準々決勝に勝利した夜、38度の高熱を出してダウンした。
夕飯ものどを通らず、マネージャーの前田浩行がイチゴを買ってきて食べさせ、休ませる。翌朝、本人は「大丈夫、大丈夫」と笑っていたが、コンディションの不調は小林との準決勝で一目瞭然だった。
明らかに動きにキレがない。わずか12得点だったことがその証左で、そんなエースの穴を菊地が31得点、実は自身も熱を出し寝込んでいた若月も22得点を挙げてカバーした。
味方の援護もあって9冠まで「マジック1」とした市立船橋との決勝戦。復調した田臥が大一番で輝きを放つ。
点の取り合いだった序盤。3ポイントを3連続で決めるなど、開始10分で12得点とチームに勢いをもたらし、能代工は前半で53-34と主導権を握った。
フィナーレが1秒、また1秒と近づいてくる。残り15秒。ゴール下で競り合った3年生の控え選手、渡部直人からパスを受けた田臥が迷わずシュートモーションに入り、ミドルショットを決めた。この試合で自身37点目、能代工の98点目から10秒後に、ブザーが鳴った。
前人未到の9冠。田臥は何を思ったか
前人未到の9冠。能代工にとって通算50回目の日本一。東京体育館のスポットライトが英雄たちを照らしていた。
マネージャーの前田が応援団に向かって歓喜を謳う。安堵の表情を浮かべながら拳を突き上げる仲間を見て、田臥に笑みがこぼれた。
「優勝して、コートでユニフォームを着てる奴らが喜んで、その後にベンチメンバーと前田、応援団と一緒に喜ぶ瞬間っていうのが一番嬉しかったですね」
9冠を目指した、最後のこの大会。加藤は一度もタイムアウトを取らなかった。それは、監督とチームの志がひとつになっていることを示すためでもあったという
能代工を未踏の地へと導いた名将が語る。
「勝つごとに期待が大きくなるなかで3年間、そこに応えてきたことのすごさですよね。指導者が求めていることに気づき、考え、理解し、判断できる人間になってほしいと思っているなかで、彼らは本当にいい雰囲気でチームを作り上げてくれました。僕もこの3年で10年分くらい勉強させてもらいましたよ。本当に『ありがとう』と言いたいです」
静けさを取り戻しつつあった東京体育館のコートで、いつもの儀式が始まる。
トロフィーを囲み、校歌と『能工バスケットボール部の歌』『三冠王の歌』を奏でるなか、田臥は9冠への軌跡に想いを馳せていた。
「いい同級生、先輩、後輩と3年間一緒にバスケができて、幸せでした」
取材・文/田口元義
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