♯4 田臥勇太ら「下級生中心のチーム」で高校バスケ3冠も…能代工「力がなかった3年生」が今も“自分たちの代で勝った”と思う理由

田臥勇太2年時…新チームの始動

高校バスケ界を震わせた「2人の天才」田臥勇太と畑山陽一。全国タイトル総なめが“至上命題”でも「負ける気がしなかった」‗01
1997年インターハイ決勝。洛南戦の田臥勇太(左)と畑山陽一(右)
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1997年4月1日。練習前に監督の加藤三彦が選手を集め、こう問うた。

「お前たち、今年はわかるよな」

「はい!」
選手たちが大声で返事する。

それは、3冠を意味していた。加藤は「勝て」と滅多に口にしないが、この年ばかりはそれが必須事項だと誰もが理解していた。

この日から新校長として能代工に赴任した、加藤廣志に勝利を捧げるためである。

1960年、同校の監督に就任した廣志は、オールコートでのプレスから速攻へ繋げるスタイルを確立させ、弱小だった能代工を33度の日本一に導いた偉大な指導者だった。

「大将」と親しまれたその廣志が、教師として定年を迎える97年度に校長として戻ってきたのである。3冠を達成してその花道をねぎらうことは、チームにとって絶対条件だった。

前年に1、2年生主体で3冠を獲得していただけに、それは現実的な目標でもあった。司令塔のポイントガード・畑山陽一、エースのシューティングガード・田臥勇太、シューターのスモールフォワード・菊地勇樹、鉄壁の守備とゴール下での強さを誇るパワーフォワード・若月徹とセンター・小嶋信哉。不動のレギュラー5人のコンビネーションは、歴戦を経て、より洗練されていた。

「3年生の時はもう、勝ちは絶対。求められていたのは試合の内容でした」

そう自信を漲らせていたのが、新キャプテンとなった畑山である。

「練習の時から『簡単なミスを限りなくゼロにする』って段階にシフトしていた感じはありました。パス、シュート、リバウンドとか、みんなが一つひとつプレーの精度を高めていくために、まずはポイントガードの自分がミスをしないように。そしてゲームメイクでは『チームの歯車を壊さないように』って意識しました」

能代工のオフェンスは、「3メン」「5メン」というメニューにより精度が高められる。3人、5人が一組となり、ドリブルをせずパスだけでゴールするこの練習によって攻撃の連動性はもちろん、パスの正確性やスピード、スタミナも養われる。このほか3人一組でボールを使わずに、シュートまでの連携をシミュレートする練習も効果は大きかった。

1年生の途中にポイントガードからシューティングガードに転向した田臥も、それらの練習でポジショニングや味方との呼吸を合わせ、スタイルを形成していった。

「最初は試行錯誤していた部分もあったんですけど、先生が『ボールをもらってからポイントガードのような動きをすればいいじゃないか』みたいに自分の活かし方を見出してくれたんで、そこを徹底するだけでした」