加熱する能代工フィーバー
3ポイントを決めやすい、リングから45度の場所でボールを受け取ると、照準を合わせてからモーションに入る。左手を添える位置、ボールを放つ右ひじの角度が決まれば、フォロースルーの時点で「決まる」と確信を得られるまでになっていた。
市立船橋との試合で44得点と暴れた菊地は、仙台高との決勝でも気を吐いた。
71-69と緊迫していた後半。残り10分を切ろうとしていた終盤に、菊地の3ポイントから能代工の攻撃ラッシュが始まり、最終的に103-80。菊地は2試合連続でチームトップとなる42得点を叩き出した。
「個人的にインターハイは、一番イメージ通りにできたんじゃないかなって思います」
これが98年の初タイトル。この頃になると、チームのタレントである田臥、菊地、若月徹の人気はバスケットボール界を席巻していた。
当時、能代工の体育館は見学自由であり、連日のように地元住民が訪れる。この年はファンの数とマスコミの取材が尋常ではなかったと、部長の安保敏明が苦笑していたほどだ。
「みなさん、最低限のルールを守ってくれてはいましたが。まあ、マスコミの対応も含めて、こちらが『申し訳ありません。高校生なんで部活に集中させてあげてください』と、お願いすることが多かったような気がします」
ファンにもみくちゃにされて…当時の秘話
インターハイを制して迎えた10月の神奈川国体になると、その熱はますます上昇した。
98年も能代工単独で臨む秋田の試合になると会場には試合前から列ができ、体育館は常に満員となった。試合が終わると、チームを待ち構えていたファンに田臥たちがもみくちゃにされながら会場を後にする。それが当たり前の光景となっていた。
後輩の堀里也の証言が当時をリアルに描写する。
「先頭で田臥さんたちを誘導する後輩が、クーラーボックスを両腕に抱えてガードしながら歩いて、両サイドは僕とかが道具を持ちながら『田臥さん、こっちです!』とか言いながら守ってましたね。
ファンの人たちに『なに、こいつぅ!』とか言われながら役割を全うしてましたよ。あの時は完全にガードマンでした(笑)」