合理的なことに反対する人々の思いとは?
大澤 あと、ちょっとそれとは別の水準のことだけど、いくつかの問題に関して、たとえば選択的夫婦別姓に関しては、おそらく「夫婦別姓で構わない」という人のほうが多いと思うんです。だって「選択的」なんだから、別姓であることを強制されるわけではないんで、合理性もあるし。
また、この本の中で丸山央里絵さんが書かれている同性婚の問題も「結婚の自由をすべての人に」訴訟の話も、合理的だと思うんです。「あなたは誰と結婚してもいいんだ」ということで、「同性と結婚したい」という人がいた時に、それを阻んでしまうことには何の意味もないじゃないですか。それなのに、それを通させるのは非常な苦労をしたりする。
このように、「なぜ抵抗されるのか分からない」という問題ってありますよね。しかも、既に多数派じゃないかと思われるものでさえも苦労することがある。
どうしてそういうことになるかは個々のケースごとに違いますが、普通、「相手がバカだからじゃないか」と、つい思ってしまいがちです(笑)。でも、そういうふうに考えてしまうとダメな場合が多くて。こっちが言っていることが筋も通っているし、合理性もあるのに、抵抗勢力はハンパじゃなく強かったりする。それはどうしてか、というのを考える必要がある。
分かりやすくするために別の例を出します。アフリカとか第三世界で、僕らから見るととんでもない法律とか憲法が作られることがある。よく話題になるのは、アフガニスタンで女性が教育を受けられないとか、アフリカの某国では「同性愛は死刑」というような法律が作られたりする。「とんでもないな、なんて遅れているんだろう」って、普通考えてしまうし、実際そういうふうに報道されています。
ただ、そういう法律が作られるのは、彼らがバカで遅れているからではないんです。彼らが不信感を持っているのは、簡単に言うと、西側の近代であり、リベラルな思想なんです。普通に考えればリベラルな思想が正しいことも知っているし、世界ではそれが通用することも知っている。でも、なぜ彼らが不信感を持っているかというと、西洋はアフガニスタンとかアフリカに対して、ロクなことやってこなかったからです。なので、「西洋風に見ていいもの」をやるということに抵抗する。つまり本当は、彼らは女性の教育とか、同性愛に対して抵抗しているんじゃなくて、西洋の近代に対して抵抗しているんです。
そこで我が国のことを考えると、日本はアフリカの某国やアフガニスタンほどには、西洋に対して敵意はないです。それでも「女性が天皇になれるかどうか」みたいな問題には強烈に抵抗する人たちがいる。普通にリベラルに見て正しいものにするというのは、「我が国の伝統」というか、「自分たちのちょっと歪んだナショナリスティックな愛情」みたいなものを否定されるように感じるのかもしれません。
夫婦別姓に関しても「いや、我が国は伝統的に、夫婦が同姓になるという形でやってきたんだ」などと言う。明治以前は人口の大多数に姓はなかったんで、本当はそんなことはないわけですが、そういうふうに言いたくなる人たちがいる。世界のスタンダードなもの、あるいはリベラルに見て、明らかに普遍性があるものとか、啓蒙思想から見て十分なものに対して、「自分たちの愛国心を否定された」みたいな気持ちになるんじゃないでしょうか。
ただ、僕はここに日本の問題があると思います。この国はそんなところでしか愛国心が発揮できないようにできているわけで。だから、反対の基になるのは、夫婦別姓や同性婚やLGBTQや性的オリエンテーションに対する無理解ではなく、実は背後にあるのは、ある種のナショナリスティックな執着ですね。その物語が歪んでしまっているんだと思うんです。
構成/稲垣收 写真/伊吹早織














