あなたの個人的な問題が、実は社会的な普遍性があるかもしれない
大澤 ただ、とにかく、やっぱり講義をするときにいつも思うのは、自分にとって非常に深刻に気になっていること、というか、「探求というものに自分を駆り立てている問題」というものを、そのときに言う、ということです。
「自分がこんなに気になっていることには、普遍的な意味があるはずだ。だから、そのことをみんなに納得してもらいたい」というような感じなんです。本当は、正直、あんまり講義の準備をしないんですよ。
谷口 それは知っていました(笑)。
大澤 どうせ、そのとき自分が考えたことを言っているんだから、誰かに教えてもらうことはない、みたいなこともあって、講義の準備をあんまりしなくて、ちょっとそれは申し訳なかったかなと思うこともあるんだけど(苦笑)。ただ、やっぱりそのほうが通じることもあって。
これはちょっと今日の話とも関係あるんですが、僕は話をするとき、けっこう寓話というものを重要視するんですよ。つまり、「煎じ詰めればこういうことになっちゃうでしょ」って一般論みたいに言っても、人には通じないんですよね、本当に。でもひとつの寓話的に語ったときに、人は「ああ、なるほど」と思うわけです。
なぜそれがこの公共訴訟と関係あるかというと、公共訴訟の問題で僕が一番重要だと思うことは、当事者はみんな「これは自分の個人的な問題だ」と思っているわけです。「自分はこんなことで嫌な思いをしている」と。
「でも、そのあなたの個人的な問題が、実はいかに社会的な普遍性があるか、公共性があるかということを証明するために、法というのがあるんです」ということだと思う。社会を変化させるときの鍵は、そこだと思うんですよ。
谷口くんがすばらしいなと思うのは、一方で、訴訟があったときに、その個人に寄り添うという仕方が半端じゃない。「そこまでやっていたら体もたないぞ」と心配になるほど、その個人に入れ込んでいるんです。その個人に入れ込んでいることが、そのまま今度はCALL4の形のように、一種の公共の問題になっていく、という、その両極ですよね。
すごく「私」の問題に寄り添える、という部分がなければ、意味がない。個人に寄り添えば寄り添うほど、なお一層社会的な問題でもあるという、そのつながりですね。
個人にとっては、自分の本当にただ個人的な悩みで、しかも無力感を感じている。「社会というのは絶対に動かない」と。
そういう個人と社会との媒介になるためには、その両極が大事です。今日の対談のタイトルの「〈ひとり〉から公共へ」です。「いかに〈ひとり〉のその固有性にこだわるか」ということが、「どうやったら公共につながっていくか」という。一見対立しているんだけど、そこが一挙につながっていく――それが公共訴訟というものの一番重要な部分だなと僕は思うんです。
構成/稲垣收 写真/伊吹早織














