「人間がつくったかどうか」が最大の価値基準?
2つ目の研究は、「人間対AI――AIが制作したアート作品よりも人間が制作したアート作品を好むのか。そしてその理由」と題された論文で、生成AIの登場によってAIと創作に関する議論が本格した2023年に行われたものです。
この実験では150人の被験者に対して、「人間がつくった」「AIが生成した」というラベルをランダムに割り振った画像を見せ、「どれくらい好きか」「どれくらい美的だと感じたか」「どれくらい深みや意図を感じられたか」という項目について、5段階評価させました。この実験には大変面白い仕掛けがありました。
実は、実験に使用された画像はすべてAIによって生成されたもので、人間が制作したものは1つもなかったのです。つまり、この実験で「人間がつくった」「AIが生成した」とラベルが付いた画像の間で回答の傾向に差が出るとすれば、作品の物理的・表面的な性質は関係なく、「AIが書いたのか、人間が書いたのか」という作品の背景情報が評価に影響を与えていることになります。
この実験の結果は、「人間が書いた」というラベルが付いた画像のほうが、どの項目についてもより高く評価されたというものでした(図4-6)。
以上の研究を踏まえると、人間がコンテンツを鑑賞する場合、コンテンツそのものではなく、その作品に付与される背景情報に大きな影響を受けていること、そして「人によって生み出された」という背景情報に対して肯定的な傾向を示すということは明らかです。
しかし、今後の技術発展を考えると、将来的に生成AIによって生み出される作品は、現時点ではまだ見られる不自然な部分も克服し、人間の生み出す作品と表面上は見分けがつかなくなるでしょう。本章の冒頭で例に挙げた私のイラスト投稿に対する反応の違いが生まれたのは、「人間が生み出したものに高い評価を与えたい」という、ある種の本能的な価値観が根源にあったからだと言えるでしょう。
一方、これらの研究からは明らかでないこともあります。AIによる生成と人間による創作を分ける基準はなんなのか、という点です。
すでに現在の創作コンテンツにも、AIや機械によってある程度自動化された部分が混じっていることは珍しくありません。将来的には、作者はともかく外部からは判断できないものがますます生まれていくでしょう。そもそも、AIか人間かを問う意義自体に、疑問が生じてくるかもしれません。
これは創作作品の鑑賞を楽しんできた筆者の私見になりますが、先ほどの研究における人間かAIかという二元論も、実際のところは本質的ではない気がします。
われわれは作品を鑑賞する際に、作品を生み出すクリエイターの情熱や、作品に込められたストーリーも含めて受け取り、感動しているのだと思います。生成AIが発展する以前であれば、高品質な作品の背後に、自然とクリエイターの情熱と込められたストーリーが存在すると見なせました。仮にある程度、AIや機械的な自動化の影響を受けているとしても、高い技量と根気、情熱がなければ、そのような作品を生み出せるわけがなかったのです。
ところが、そこに自動化のレベルが何十段階も進んだ生成AIが現れ、誰もが手軽に高品質な作品を生み出せるようになったことで、われわれの作品鑑賞における常識がうまく機能しなくなっているというのが、現在の状況だと思います。
おそらく今後、従来のクリエイターは、自身の感情面での自動化の許容度と、生成AIの利用によって得られる効率化などの恩恵度合を考慮して、最適な利用ラインを選択していくと思います。人によっては、まったく利用しないという選択も考えられるでしょう。
生成AI登場以降にAIを利用してコンテンツ生産者になった人は、その利用ラインもゆるやかかもしれません。プロンプトを工夫する行為が、本人にとって情熱やストーリーを反映するものとしてとらえられるのであれば、それはそれとして尊重されてもいいと個人的には思います。
では、鑑賞者側は何を基準にコンテンツを味わうのか。これも、人によって異なるラインができていくのでしょうが、創作物を生み出そうとした人そのもの、あるいはコンテンツ上で表現されたこだわりや工夫のようなものに注目することになるのではないかと思います。
図/書籍『生成AIで世界はこう変わる』より
写真/shutterstock