神戸メリケン波止場
日本のブラジル移民の歴史の中で、一九一七(大正六)年四月二十日は過去三年にわたる中断ののち、本格的に渡航が再開された日として記録されている。その日の夕刻、十三歳の小川フサノは、メリケン波止場の岸壁に横着けされている「若狭丸」を見上げていた。
自分はこれから、この船に乗る。そして、地球の裏側に行くのだ。ブラジルという国へ。
フサノはまだ、自分に降りかかった運命をよく理解していなかった。まして、前途に波瀾に満ちた人生が待ち構えているなど、つゆほども想像していなかった。
十三歳の少女にとって、それは青天の霹靂とも言うべき出来事だった。一九一七(大正六)年、熊本県葦北郡(あしきたぐん)二見村(ふたみむら)の尋常小学校を出た小川フサノは、実家の手伝いをしながら自分の行く末を考えているところだった。そこにブラジル行きの話が降って湧いたのだ。とっくに桜が散った二見の村では、阿蘇宮の楠の神木の張りだした枝に新緑が勢いよく芽吹いていた。
正直なところ、フサノはブラジルには行きたくなかった。大人たちの話では地球の裏側だというではないか。教科書で習った東京よりも、もっと遠いところだろう。しかし、食い詰めた小川家である。子沢山のこともあり、なるべく口減らしをしなければならない。すでに長女のミシは大阪で芸者に出ていた。
八歳で生家没落の憂き目に遭ったミシは、ほとんど読み書きができないまま七十六年の生涯を過ごした。キリッとした姿勢を崩さなかったミシは、傍目にはそうとは見えなかったが、フサノには不自由を押し隠して懸命に生きていることがわかり、姉が不憫でならなかった。
フサノは一九〇三(明治三十六)年五月二日、生家のある熊本県葦北郡百済来村(くだらきむら)小川内(おかわち)から南東に十一キロほど離れた白石(しろいし)という村の辻堂で、父・小川三次、母・ミセの次女として産声を上げた。
生まれ落ちた場所からして、前途の多難さを予感させるものだった。白石は日本三大急流のひとつ球磨川の中流に位置する。まだ小川家が没落する前のことで、三次が身重の妻と使用人を連れて山林地主として山仕事に出張っている途中、ミセが産気づき、辻堂での出産となったのだった。兄弟姉妹は、長男・善信、長女・ミシ、次女・フサノ、次男・武夫、三女・トジュ、四女・シノブ、三男・安貞、四男・典太の八人。武夫を除く男子三人は夭折した。