道楽者の父の破産

ミセの実家は百済来より山ひとつ八代海寄りの二見村の中心部・下里(さがり)にあり、ミセは豪農本村家で三男三女の長女として生まれた。父親の壽作(じゅさく)は篤志家で、八代海の干拓事業にも積極的に乗り出し、今日の八代市郡築(ぐんちく)地区の最初の入植農家はほとんどが壽作の子孫である。

いまでも下里の二つの辻堂には建立した壽作の名が刻まれている。庶民の嫁入りは夜が普通だった当時、ミセは昼間に三次のもとに嫁いだ。タンス、長持ちを連ねた花嫁行列は長く語りぐさになった。

一九〇五(明治三十八)年、フサノが二歳の時、小川家は没落する。三次が保証人で受け判をして山林と農地のほとんどを失ってしまったからだ。事件では代書(注1)など何人もが捕縛され、獄に繋がれた。のちに長女のミシは、「お日さまが西から上がっても東(ひがし)が潰れることはない、というくらいだったのがつぶれて、大騒ぎになった」と思い出を語っていた。東とは小川家の屋号である。

小川家は不思議な家である。明治の戸籍の身分では平民となっているが、火の国葦北の国造の子孫とも、京都から流れてきた公家の末裔ともいわれてきた。明治に至るまで白馬に騎乗することを許され、三次は六歳のおり、西郷隆盛の軍勢が熊本鎮台を攻めるために北上して行くのを白馬にまたがって見送った。

昭和天皇の大喪の礼で皇宮警察本部の護衛部長を務めた遠縁の中村照義が村の古老に聞いたところでは、いつも小川家の当主は白装束に身を固めており、衣服に田畑の土などが飛ぶことはなかったという。没落後も、三次と口をきくとき村人は土下座していた。

一八七一(明治四)年生まれの三次は道楽者で、フサノが生まれる前の明治の中頃、二歳下の弟・米作と二人で日光まで遊山の旅に出かけ、京都の祇園や島原、東京の吉原などを遊び歩いた。鉄道が開通していない行程は駕籠(かご)に乗って移動した。三次は棒術の達人で、米俵二俵、百二十キロを背中に乗せて歩くほどの力自慢だった。

小川家の破産で、フサノたちは母ミセの生家・本村家を頼って二見村の下里集落の最も奥、馬場と呼ばれる土地に小さな家を構えた。ここは戦国時代までは園田城があり、その馬術練習場の跡地である。背後の路木岳(ろぎだけ)の山頂には親戚である赤星家の金干(きんかん)城があった。

フサノが生まれた一九〇三(明治三十六)年、東北地方は前年から十年あまり続くことになる北日本大冷害のただ中にあり、平年作か凶作かを分ける七月の平均気温二十度を大幅に下回る日々にあって、農民は困窮に喘いでいた。それでも三月には大阪で内国勧業博覧会が開かれ、入場者五百三十万人を記録し、日本で初めてメリーゴーランドやイルミネーションが披露された。ライト兄弟がわずか十六馬力の複葉機で人類初飛行を実現した年でもあった。

五年生になったフサノは九歳年下の妹トジュを背負って尋常小学校に通った。二階建ての木造校舎は全国に小学校が建てられた明治初期の建築で、杉の床板の節穴から下の教室が見えた。

注1/代書……委嘱を受けて官公庁へ提出する書類の代筆をする職業。現代の行政書士のようなもの。