下町とともに育ったキンミヤの歩み
キンミヤの歩みを語るうえで外せないのが、「大衆酒場文化」との結びつきだ。宮﨑本店は1846年の創業当初、芋焼酎の蔵として始まった。その後、新しい蒸留設備を導入して甲類焼酎づくりに乗り出し、昭和初期には、現在「キンミヤ」の名で親しまれている亀甲宮焼酎が誕生する。
戦後、大衆酒場文化が広がるなかで、ビールがまだ贅沢品だったガード下の飲み屋では、安く酔える焼酎やホッピーが主役になっていった。クセがなくホッピーとの相性がいいキンミヤも、そうした店に少しずつ置かれるようになり、「下町といえばキンミヤ」というイメージが育っていった。では、そもそもなぜ下町での展開を重視してきたのか。
「キンミヤは、歴史や物語のあるお店との関係を重視して卸してきました。大手チェーンに導入すれば出荷数量は伸びますが、売上の数字ひとつで明日からは必要とされなくなるかもしれない。うちは生産量にも限りがありますし、長くご愛顧いただけるお店とのつながりを大切にしてきました」(美濃部さん、以下同)
こうした考え方は、宮﨑本店の歴史に根ざしている。かつては四日市から江戸へ、樽に詰めた酒を船で運び続けてきた時代があり、関東大震災の際には、自社の船に救援物資を積み込み、取引先に無償で届けたという逸話も残っているという。
こうした出来事は、「義理人情」を重んじる土地の記憶に深く刻まれた。取引先の各店は復興後もその恩義に応えたいという思いもあり、宮﨑本店との取引が続いたという。一軒一軒とのこうした積み重ねが、結果として「下町のキンミヤ」というイメージを今も支えているのだろう。













