アフリカにおける民族と国家

――我々はすぐに「アフリカ」と一言で言いますが、『沸騰大陸』を読むと、国や地域によって驚くほど多様性があるのがわかります。

三浦英之(以下同) アフリカ大陸ってメルカトル図法(赤道付近が小さくなる)の影響で、世界地図的に見ると比較的小さく見えてしまうのですが、面積は日本の実に80倍もあり、とにかく広いんです。

アフリカ特派員時代はよく、南端の南アフリカから、所属新聞社の中東総局がある北部のエジプトに通っていたんですが、南アとエジプトとの距離、たとえば日本からだとどれぐらいの距離に相当するかわかりますか?

――いえ、ちょっと想像がつかないですね。

日本からだとちょうどフィンランドに行く距離とほぼ同じなんです。それぐらい遠いし、広い。そしてそこには無数の民族が混在しているのですが、彼らにとってまず民族が先で、国家という概念はどちらかというと、後から押しつけられたものという認識がある。

面白かったのは、ケニアの奥地に取材に行ったとき、現地の古老に「いまのケニア政府についてどう思うか?」と尋ねたら、古老は笑いながら「ケニアって誰だ?」って聞き返してきたんです。

半ば冗談だったのかもしれないけれど、そういうところっていまだアフリカにはあるんです。最初に民族があり、次に国家という枠組みが存在している。

『沸騰大陸』には、アフリカの20か国あまりを取材したルポ34編を収録
『沸騰大陸』には、アフリカの20か国あまりを取材したルポ34編を収録
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――国家という概念が乏しい?

アフリカって、国境地帯にも一面のサバンナが広がっていて、国境自体がよくわからないですしね。その中で、地域によっては人々が民族という集合体でしか物事を考えていないようなところがある。

彼らはGPSとかを持ってるわけでもないし、国の境目を意識せずに行ったり来たりしている。税金だってほとんどの人が払っていないし……。だから、国民という意識がすごく希薄なんじゃないかと感じます。

たとえば「内戦」と言っても、国家の枠内で戦っているというよりは、たまたまその国家の枠内に居合わせた、異民族同士の諍いだったりするんです。

――狭い島国でいろいろなものに縛られて生きている我々には、想像が難しいところがあります。

そうですね。日本という小さな島国であまりにも多くのものを背負いながら生きている僕らからすると、対極にいる「最も遠い人たち」と言えるかもしれません。

でも、彼らにはある意味、うらやましいぐらいに人間っぽさがある。愛や憎しみといった感情がものすごい激しいんです。喜ぶとゲラゲラ笑うし、夜などは焚き火を囲み、太鼓をドンドンドンドンやりながら、歌って踊る。そういう根源的な楽しみは、ひとたびその喜びの輪の中に入ると、本当にワクワクするし、楽しかったりする。

同じように、空を見上げて「わっ、こんなにも星が見える」という感動や、ヌーの大群がものすごい勢いでガーッと川を渡る姿を見た時の、体が震えるような瞬間とか。それはたとえば、日本で夜の8時半にビールをカチャッと開けてNetflixを見る、そうした楽しさとは次元の違う、僕らのDNAに深く刻まれた「生きる喜び」みたいなものを日々、感じながら生きているんです。