茶々と秀頼が家康に送った書状の中身
合戦後、家康は大坂に向けて進軍する。
二十二日に家康に代わって大坂城西の丸に在城して、大坂方総帥の立場にあった毛利輝元は、家康に従属を誓約し、二十五日に大坂城から退去した。
家康は二十七日にそれに代わって西の丸に入城し、さらに二の丸に嫡男秀忠を入れた。そしてその日、秀頼に対面した。
この対面について世間では、「家康と秀頼の和睦」と認識する向きもあった。そのあいだの十九日に木下寧々は京都新城から退去していて、二十一日に茶々と秀頼は家康に書状を出していた。書状の内容は判明していないが、家康支持を表明するものであったろう。
大坂城が大坂方の本拠になっていたから、それらは寧々・茶々・秀頼が大坂方に味方したととられることを懸念してのことであろう。
家康としても、いまだ各地に敵対勢力が残存していて、その追討の必要があったから、茶々・秀頼には穏便に対応し、秀頼との主従関係を解消することはなかった。
しかし十月から、敵対した大名領の収公、合戦で戦功のあった大名に新領国・所領の充行をすすめていった。
それは実質的に、それら大名との主従関係を形成したことを意味した。以後において家康は、天下統治を独自の裁量でおこなっていくことになる。図らずも反対勢力が一斉に蜂起し、それに軍事勝利したことで、家康の覇権は一気に確立したのであった。
文/黒田基樹
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