12歳徳川秀忠(長丸)と婚約した秀吉の養女・小姫(6歳)
小田原合戦開戦の直前の天正十八年(一五九〇)正月二十一日に、家康の三男で嫡男であった長丸(秀忠)が上洛し、秀吉に出仕するとともに、秀吉の取り成しによって、秀吉の養女となっていた織田信雄の娘・小姫(一五八五〜九一)と婚約した(『多聞院日記』同月二十八日条)。
長丸は天正七年生まれの一二歳、小姫は同十三年生まれの六歳であった。小姫は、二、三歳の時から秀吉の養女となっていたという。
秀吉の養女としては、それ以前に樹正院(いわゆる「豪姫」、前田利家の娘)がいたにすぎず、それは宇喜多秀家と結婚していた。小姫はそれに続く養女であり、それを家康嫡男の長丸と結婚させることにしたのであった。
そして秀吉は、北条家追討のうえで、関東で三ヶ国を長丸に与えることを決めたという。
これは長丸が、小姫の婿であることをもとに、家康嫡男というだけでなく、秀吉の娘婿として、別個に親類大名として取り立てられることを意味しよう。そうであれば家康が、小田原合戦後に関東七ヶ国という破格の領国を与えられたことには、このことが踏まえられていた可能性も想定される。
この婚約の直前にあたる正月十四日、家康正妻の朝日が四八歳で死去している。このことをみれば、長丸を秀吉養女と婚約させたのは、朝日死去にともなって断絶してしまう秀吉と家康の姻戚関係を、継続させるためであったと考えられる。
長丸の上洛・婚約については、家康から人質をとるため(片山正彦『豊臣政権の東国政策と徳川氏』など)、長丸妻の小姫を人質にするため(福田千鶴『江の生涯』)、などの見解が出されている。
秀吉にとって家康との姻戚関係の継続は必須
片山氏の見解については、福田氏が明快に否定している。家康正妻の朝日の死去が想定されていたなかでのことであったことは、間違いないとみられ、そのため小姫を朝日に代わる徳川家からの人質にするという、福田氏の見解は一理あるようにも思えるが、朝日・小姫ともに秀吉に近親にあたる存在であることからすると、一般の人質と同列には考えられないであろう。
むしろ秀吉と家康の関係は、朝日を介して義兄弟にあり、それに基づいて政権における家康の政治的地位が成り立っていたことからすれば、秀吉にとって家康との姻戚関係の継続は必須のことであったと思われる。
そのためこの婚約は、何よりも両者の姻戚関係の継続が目的であったと考えるのが妥当と思われる。
長丸は、小田原合戦後に再び上洛し(十一月と伝えられる)、十二月二十四日に従四位下(形式的には初め従五位下、同日に正五位下、次いで従四位下に叙された)・侍従に叙任され(口宣案の日付は二十九日)、公家成大名とされた。
そして翌天正十九年正月二十六日に元服し、秀吉から偏諱を与えられて、実名「秀忠」を名乗った。下字の「忠」字は、家康の出身になる安城松平氏の通字である。
すでに家康の下字「康」に秀吉の偏諱を冠した実名は、次男秀康が称していたので、秀忠には先祖の通字の「忠」字が採用されたとみなされる。そして羽柴苗字・豊臣姓・武蔵守を与えられ、「羽柴武蔵守秀忠」を称した。
羽柴(豊臣)政権における官位制に基づいた政治秩序において、従五位下・侍従の官位を与えられた大名は、昇殿が許され、公家成大名と称され、他の大名・直臣とは区別される地位におかれた。
当時、公家成大名になっていたのは、羽柴家一門はもちろん、織田家一門、羽柴家の親類衆、旧織田家家臣の有力者、旧戦国大名・国衆の有力者であった(拙著『羽柴を名乗った人々』)。
嫡男の立場で公家成されたのは、羽柴家一門と親類衆、旧戦国大名の有力者に限られていた。それに照らせば、秀忠が元服とともに公家成されたのは当然であった。