秀吉死去~関ヶ原合戦の政権の動向について、近年急速に解明
慶長三年(一五九八)八月十八日に、羽柴秀吉が死去した。
後継者の秀頼は、まだ六歳の年少であった。当然ながら政務を執ることはできないので、秀頼成人までのあいだの政務体制として、遺言により、いわゆる「五大老・五奉行制」が組織された。
家康は「五大老」の筆頭に位置した。また家康と前田利家(羽柴加賀大納言)は、それまでと変わらず、五人のなかでも別格の立場に位置した。そして家康は、秀次事件以来の東国統治に加えて、政権首都の伏見での「諸事御肝煎」を委ねられた。
かたや利家は、北国統治に加えて、羽柴家本拠の大坂での「惣廻御肝煎」を委ねられた(跡部前掲書)。
秀吉の死去は、朝鮮在陣の諸大名の軍勢が帰還するまでしばらく公表されず、年末に公表された。それをうけて翌慶長四年元旦、秀頼が羽柴家の家督を継承して、伏見城で諸大名から年頭挨拶をうけ、そのうえで十日に大坂城に移った。
秀頼補佐を担う利家は、それに同行した。以後、羽柴家の本拠は大坂城に移された。
秀吉死去から「五大老・五奉行」による政権運営がおこなわれるものの、すぐに内部分裂が展開され、各種の政変・事件が生じていく。その帰結が、同五年の関ヶ原合戦であり、それによって家康の政務体制が確立されることになる。
秀吉死去から関ヶ原合戦までにおける政権の動向については、近年、急速に、かつかなり詳細に解明がすすめられている。そのためそれらを総括するだけでも、大仕事になり、それだけでも数冊の分量を必要としよう。そのためここでは、それらの研究成果を参照しつつ、家康の動向と立場に焦点をあてて述べていくことにしたい。
参照すべき研究成果も極めて多数にのぼるが、ここでは叙述にあたって直接に依拠したもののみを紹介するにとどめざるをえない。