秀吉とそっくりだった徳川家康
もっとも周囲は、家康をあくまでも「天下の家老」と認識し、「(天下の)主人」とみなしていたわけではなかった(福田千鶴『豊臣秀頼』)。
そのため家康は、自身の政務体制に反発する、ないしそれが想定される存在に対して、自身への屈服をすすめていくことになる。それはちょうど、羽柴秀吉が織田信長死去後の織田政権においてとった行動と、あたかも相似している。
そもそも大坂城西の丸入城にともなって、領国の加賀に在国していた「大老」前田利長(羽柴加賀中納言、一五六二〜一六一四)を政務から排除し、「大老」宇喜多秀家(羽柴備前中納言)の居所を大坂から伏見に変更させて、同じく政務から排除した。
さらに秀忠妻の江を、大坂から江戸に下向させている。それは政権への人質を回収したことを意味した(大西泰正『前田利家・利長』)。これにより徳川家は、実質的に羽柴家に人質を出さない存在になった。徳川家と羽柴家の関係の曖昧さが生み出される端緒と認識できる。
また大坂城西の丸入城後から、前田利長とのあいだに不穏な状況が生じた。通説では、家康は利長を追討する「加賀征伐」を企てた、とされているが、大西泰正氏の検討により、それは虚説であることが明らかになっている。
家康と利長は和解をすすめ、その際には家康五男信吉を利長の養子にする案も浮上したらしい。結局、慶長五年(一六〇〇)五月に、利長の母芳春院が江戸に下向し、徳川家への人質に出されたことで、利長の家康への従属が示された。