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長年、武田信玄・勝頼父子との戦いに苦しめられてきた家康

天正十年(一五八二)三月十一日、武田勝頼が死んだ。織田の大軍に攻め込まれ、さしたる抵抗もできずに、逃亡途中に敵の襲撃を受けて自刃して果てたのである。

この一報を耳にしたとき、徳川家康の胸にはどういった思いが去来したのだろうか。

周知のように、家康は長年、武田信玄・勝頼父子との戦いに苦しめられてきた。そういった意味では宿敵であり、憎悪や畏怖の対象でもあったはず。

そもそも武田氏との因縁の発端は、武田滅亡から十四年前にさかのぼる。家康は信玄と盟約を結んで東西から今川領へなだれ込んだものの、信玄が取り決めに反して軍勢を家康の取り分である遠江国まで入れてきたのだ。

不信感をつのらせた家康は信玄と袂を分ち、元亀元年(一五七〇)に越後の上杉謙信と同盟を結んで、武田氏と敵対状態に入った。織田信長が双方の和睦を働きかけようとしたが、家康は頑として姿勢を変えなかった。

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嫡男の松平信康を奉じて家康を倒し、織田と手を切り武田と結ぼうとする動き

結果、元亀三年(一五七二)十二月、家康は三方原で武田軍に完膚なきまでに叩きのめされ、あやうく討ち死にしそうになる。もし数カ月後に信玄が逝去しなければ、徳川領の大半は信玄に奪われ、家康自身も大名として存続できたかどうか怪しい。

ただ、信玄の死で徳川家が安泰になったわけではなかった。むしろ逆だった。後継者の勝頼が信玄に劣らぬ勇将で、果敢に徳川領内に侵入してきたため、家康は高天神城をはじめ次々と領内の城を攻略されてしまった。天正三年(一五七五)、信長の後援を得て長篠合戦で大勝したものの、勝頼は短期間で態勢を立て直すや、再び徳川領に入り込んでは家康を悩ませ続けた。

こうした状況のなか、徳川家中では動揺や不満が広がり、嫡男の松平信康を奉じて家康を倒し、織田と手を切り武田と結ぼうとする動きが具体化したようだ。おそらく、勝頼が積極的に工作を働きかけたのだろう。このため家康は天正七年(一五七九)、我が子・信康を生害し、禍根を断たざるを得なくなったという説もある。