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なぜ信長は信康殺害を命じたか

徳川家康は、天正七年(一五七九)に嫡男の松平信康を切腹させ、正妻の築山殿を殺害している。

徳川家にとっては、まさに御家を揺るがす一大事だったといえよう。

信康は当時二十一歳、徳川(松平)家歴代の居城・岡崎城をまかされ、勇将としての名が世間に高まり始めていた。

家康には他に男児が二人いたが、次男の秀康(母は於万の方)はまだ六歳だったうえ、なぜか冷遇され四歳になるまで家康は対面しなかった。三男秀忠(母は西郷の局)は生後わずか四カ月の乳児に過ぎない。乳幼児の死亡率は高いから、二人ともこの段階では成人するかどうかわからない。

そういった意味では、跡継ぎの信康を死に追いやることは、家康にとっては大きなリスクだったはず。なにゆえ我が子を殺さねばならなかったのか。

一言でいえば、それが織田信長の命令だったからである。

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徳姫(五徳)が父信長に送った、夫・姑の悪行十二カ条

この時期、織田の領国は強大化し、信長は天下を制する勢いを見せており、家康も織田家の属将的な立場に甘んじざるを得なくなっていた。信長に逆らうことはすなわち、徳川の滅亡を意味した。

では、いったなぜ、信長は信康の抹殺を命じたのだろうか。

残念ながら、事件の経緯が詳細にわかる一次史料は存在しない。そこで詳しい事情が載る『三河物語』や『松平記』をもとに、『当代記』『徳川実紀』『改正三河後風土記』などを参考にして、事件の詳細を解説していこう。

天正五年(一五七七)、信康の正妻である徳姫(五徳)が夫や姑に関する悪行を十二カ条に認したため、酒井忠次に持たせて、岐阜にいる信長に送り届けた。