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徳川家康が秀吉政権でも、とてもとても偉かった理由

家康は、天正十四年(一五八六)十月に、羽柴(豊臣)秀吉に出仕したことで、羽柴(豊臣)政権に従属する「羽柴(豊臣)大名」の一人になった。

しかし秀吉への出仕に先立って、家康は秀吉の妹・朝日(南明院殿)を正妻に迎えていたため、政権主宰者の秀吉との関係は、妹婿にあたった。そのため家康の立場は、当初から他の旧戦国大名や旧織田家家臣らとは異なる、格別なものであった。

秀吉に出仕した直後の十一月五日、秀吉に随従しての参内にともなって、家康は正三位・権中納言に叙任されたが、これは政権下の大名のなかでは、権大納言の織田信雄に次ぎ、秀吉実弟の秀長と同等であった。

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秀長に次ぐ羽柴家一門衆は、甥のなかで最年長の秀次であったが、その官職は参議で、家康のほうが上位に位置した。

秀吉は自身が関白に任官したことにより、政権における武家領主の身分制について、官位序列による新しい政治秩序を形成していた。家康はそこで、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位に位置付けられている。

しかも秀吉・秀長の次世代の一門衆よりも上位に位置した。それは家康の立場が、秀吉の妹婿であったからであった。そうした家康の立場は、羽柴家の親類大名ととらえることができ、かつその筆頭に位置したのであった。

そもそも家康は、前政権の織田政権において、すでに高い政治的地位に位置付けられていた。

それは嫡男信康が織田信長長女・五徳の婿という姻戚関係によっていた。それにより家康は、「織田一門大名」の立場に置かれていた。この姻戚関係は、信康事件によって解消されるが、家康の政治的地位は継続された。

本能寺の変後では、織田信雄・同信孝に次ぐ地位に置かれていた。そのため秀吉が家康を政権内に位置付けるにあたっては、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位ほどにする必要があり、そのために家康を妹婿にした、とみることができる。