家康はどうして毛利・宇喜多を政務に復帰させたのか
ただし同時に、利長妻の玉泉院殿(信長娘、一五七四〜一六二三)と利長後継者の立場にあった弟の利政(羽柴能登侍従)を、大坂から加賀に帰国させている。これはこの時の前田家の政治的立場の転換を示していて重要である。
玉泉院殿は羽柴家への人質であったから、その帰国は前田家も、羽柴家に人質を出さない存在になったことを意味した。
また利政は、能登の領国大名であるとともに、大坂城の勤番衆であったが、その役目が解かれたことを意味した。それらは前田家が、徳川家に従属したことにともなって、羽柴家に奉公する存在でなくなったことを示した。
他方で家康は同年四月から、領国の陸奥会津領に在国している「大老」上杉景勝に、上洛を要求した。これももちろん家康への従属を求めたものになろう。
上杉景勝はこれを拒否し、そのため家康は「会津討伐」を企てる。そして諸大名に出陣を命じて、六月十六日に大坂城から伏見に移り、十八日に会津に向けて出陣することになる。
もっともそれに先立つ五月に、家康は残りの「大老」の毛利輝元・宇喜多秀家との三大老連署で、前年十二月からこの年四月までの日付で、羽柴家直臣と寺社への知行充行状を作成している(谷前掲論文)。
ただしその意味については、まだ明確になっていない。しかしこれは、それまで政務から排除していた毛利・宇喜多を、政務に復帰させたことになる。家康はその時点で、どうして両者を政務に復帰させたのか、この時期の政治情勢を分析するためにも重要であろう。
そうしたなか、七月十二日に政局が大転換する。元奉行・石田三成と羽柴家有力直臣・大谷吉継が家康討伐のために蜂起し、これに「大老」毛利・宇喜多と三奉行が同心したのである。
すなわち「関ヶ原合戦」の勃発である。
これにともなって各地では、家康の江戸方と毛利らの大坂方に二分した抗争が展開された。近年、各大名・各地域の動向が詳細に明らかにされるようになっている。さらに今後、ますます解明がすすめられていくことであろう。
同合戦の詳細については、それらの研究成果に委ねざるをえない。結果として家康は、「会津討伐」で率いていた軍勢をもとに、九月十五日の美濃関ヶ原合戦で大坂方に勝利し、それにより反対勢力の一掃を遂げるのである。