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家康は、三河・遠江・駿河の三国を領する大大名になった

武田滅亡後の三月二十九日、戦後の論功行賞(知行割)が発表された。

滝川一益には上野一国が給付され、武田の本領たる甲斐一国(穴山梅雪の領地は除外)は、信忠の属将である河尻秀隆に与えられた。同じく信忠付の森長可が信濃国四郡、毛利長秀が信濃国一郡を賜り、信忠に降伏してきた木曽義昌も木曽に加えて信濃二郡を与えられた。こうして武田征伐で総大将をつとめた織田信忠の勢力が一気に膨張した。

さて、徳川家康である。

長年、同盟者として織田家を盛り立てた最大の功労者ゆえ、信長は駿河一国を与えて報いている。このとき駿河東南部は小田原北条氏の支配下にあったが、そこも含めて一国まるごと付与したのである。こうして家康は、三河・遠江・駿河の三国を領する大大名になった。かつての今川義元と同じ立場に立ったわけだ。

ただ、状況は当時と全く異なっている。

信長はすでに日本の過半を支配下に置き、中国や北陸も羽柴秀吉や柴田勝家の活躍で制圧の目途が立ってきていた。四国攻めの準備も進んでおり、おそらくあと二年、いや一年あれば、天下が統一できそうな状況になっていた。

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これ以上領地の拡大が見込めなくなった家康

そうしたなか、いつしか家康は信長の対等な同盟者から織田の一門大名のような地位に落ちていた。実際、このように信長から領地を給付されていることでも、それは明確だろう。しかも武田征伐以後、家康は信長のことを「上様」と呼ぶようになった。

それに領地が三国に増えたといっても、徳川の分国は織田と北条の間に挟まれており、これ以上、領土が拡大する見込みは消えたのだった。

さて、武田を滅ぼした信長だが、しばらく甲斐国に滞在し、雪の富士を眺めたり、勝頼の新府城の焼け跡を見たり、府中(甲府)を見物したりした。そして信玄の躑躅ヶ崎館跡に信忠が建てた豪華な仮御殿でしばし過ごした後、「『富士一見』と被仰て、女坂・柏坂を越ゑさせ給ひて、駿河へ御出有て、根堅を通らせ給ひ、遠江・三河へ出させられて御帰国なり」(『三河物語』)とあるように、四月十日に甲府を発ち、家康の分国を通って帰国することにした。