子どもって変化が嫌い
井戸川 『外の世界の話を聞かせて』では「変化」というものが印象に残りました。その中でも一番変わるのは、陽日の友人の瞳だと思います。学校で無視されても、超然としたふりをする瞳。でもクラスの、つながりのないような子の動向やあだ名も把握している。学校に行けなくて、自宅学習をしています。ピアスを開けたり、口癖も変わったり。読みながら、「瞳、頑張れ」と応援していました。
江國 そうですね。瞳が一番、この小説の中で変化しています。私は突然現れた瞳のボーイフレンドみたいな人が気になる。どういうつもりなんだろう。悪い人ではないと思うんだけどね。
井戸川 書いた江國さんにもわからないんですね。身長や体重は決まっているんですか。
江國 わからないです。急に出てきたから。
井戸川 いい子だったらいいけど。
江國 陽日が変化する瞳を見て、嫉妬するところは自分も思い当たります。嫉妬って恋愛と結びつけられて考えられがちだけれども、実は恋愛よりも、ああいう時に発生する。私も妹が実家で男の人と住み始めて、生活を変えた。いい人だとわかっているのに、私は嫉妬しています。妹を取られた気持ちになって(笑)。
井戸川 不思議ですね。自分は先に家を出ているのに(笑)。
江國 だからあの時の陽日には同情しました。瞳が一番外界にさらされているから、出会いも多いだろうし、変化のための何か触媒みたいなものが必要だったのかもしれない。特に女子校に通っていた瞳にとって、初めての男の子の友達かもしれず、それはブランニューですよね。ブランニューというだけで価値があるんです。きっと若いときはね。
井戸川 友人の瞳が変化したことに対して、陽日が「たぶん私は、変化がいやなんだと思う」と言い、功とあやめが「変化だけはどうしようもないよね、馴れるしかない」「万物は流転するし」と答えるシーンがあります。
江國 そういわれても、陽日は変化がいやでしょうね。
井戸川 年をとったら「仕方ない」と思えるんでしょうかね。あやめは、母である輝子の「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないの」という言葉を思い出し、こう回想しています。
昔の人がみんなそうなのか個人の特性なのかわからないが(伯父や伯母やありちゃんや健ちゃんを考えるとあやめには前者であるように思えるが)、母親にはさっぱりしていて潔いところがあった。感傷を嫌い、変化をおそれないようなところが。もしかすると、それこそがあのピンクの家の気風だったのかもしれない。
(『外の世界の話を聞かせて』)
江國 昔の人の方が変化を受け入れていたように思います。個人差もあるでしょうが、自分の親世代の方が「執着はみっともない」と思っていた気がする。
それは私の周りの大人だけではなく、映画やドラマでも。大人が内心どう思っていたかはわからないけれども、感傷的になって、昔は良かったとか、ああだこうだ言うのはみっともない、それが大人の美学だとする感覚があったのかもしれません。やせ我慢も含めて。
逆に、私くらいの年齢の人たちは言いっ放しです。昔はああだった、昔はよかったと(笑)。私も「なんでもかんでも機械になっちゃう」って、ついぐずぐず言ってしまいがちです。それでも子どもの時よりは受け入れざるを得ないでしょうね。
井戸川 確かに。大人になると、もうそういうものだと。
江國 それはもう、いや応なしにという部分があります。子どもって変化が嫌いですよね。
井戸川 私もまだ嫌いです。すぐ感傷的になってしまいます。
江國 私もわりと嫌いです。子どもだからかもしれないですね。年を取っても子どもであることはあり得るから。
井戸川 江國さんの最近の小説では、年を重ねた人が魅力的に描かれていますよね。『外の世界の話を聞かせて』でも、陽日が大人たちに対して「可能性と希望」を感じる場面が好きです。
もしかするとこの人たちは、陽日の想像する嫉妬――暗くて陰湿で不穏でおそろしげな感情――とはほんとうに無縁なのかもしれないと思った。だとしたら、これはすごくいいニュースだ。そういう大人が存在するという事実に陽日は何か大きな可能性を感じる。可能性と希望を。
(同前)
江國 そうそう、あそこの場面は私も好きです。嫉妬したことがない大人がいるとしたら……
井戸川 確かに可能性や希望があります。
江國 あやめと功には嫉妬の感情が欠落している気がします。功の姉である真実子にはあるでしょうね。
井戸川 あやめのように嫉妬もなくて「万物は流転する」と思えたら、理想ですね。
江國 ただ、そうすると、世界からはみ出してしまうとも思う。あやめは、自分から物事に深く関わろうとしません。生きやすそうですが、寂しい感じもしますね。仲間のような家族のような人たちがいるから、わかりやすい意味での孤独ではないのかもしれないけど。
井戸川 確かに。あやめが孤独を感じているとは思えない。一方で、真実子は自分を「孤立無援」だと感じて、そういう時に、頑丈な石壁に囲まれている自分を思い浮かべているのが印象的でした。
江國 真実子はそうですね。でもどっちが強いのかわからないですね。
井戸川 確かに、時と場合によって違いそうです。
陽日が大人たちに対して「可能性と希望」を感じるところが好きなのは、私も教師をしていた頃にそういう大人の一例として……
江國 えっ、先生だったんですか!?
井戸川 あっ、そうなんです、高校で国語を教えていました。詩を教えるのが難しいなと思って、詩を書いて投稿するようになって。だから、教師になって本をたくさん読むようになり、言葉が湧き出た感じです。教師にならなかったらこうして文章を書いてなかったと思います。話を戻すと私も、ただこういう人もいるという一例として、生徒の前に立っていたなと。
江國 えー、すごい。先生かあ。それで詩を書き始めたんですね。意外です。
本の中も「隙間の場所」
――『外の世界の話を聞かせて』では、真実子が火葬場で働いている設定が印象的です。先ほど「ディテールで見せたい」とおっしゃっていましたが、職業もそのひとつなのでしょうか。
江國 小説を書く時に、その人がどのような職業なのかはよく考えますね。真実子も小説の中で言ってますが、多くの人はお金を得るために働いているけれども、仕事は人格にも関わってくるし、生活にも影響が出る。夜働いているか、昼働いているかで、日々の暮らしも違います。
真実子が火葬場で働いているという設定は、この小説を支えていると思います。火葬場は外でもあり内でもあり、変化する場所であり、普遍の場所でもある。
井戸川 「結局のところ、人はみんないずれ死ぬのだ。ここで仕事をしていると、その事実を日々忘れずに済む」と真実子は言いますよね。忘れずにいたいけれど、それを忘れずにいるのは辛いことでもありますよね。
江國 そうですね。でも忘れずにいる方が安心ということもあります。
人が急に死ぬのは、言葉の上では、もちろん子どもの頃からわかっていたことですが、年とともに実感されます。本当に人って急に死ぬんだな、この間まで元気だったのにと。
井戸川 でも、真実子は実感し続けることによって安寧を感じている。
江國 その通り、安寧です。
井戸川 私も『無形』で火葬場を書いたのですが、文章が浮かんでくる場所ですね。
江國 火葬場は、外と内の「あいだの場所」である気がします。
学校とも家庭とも違うあいだの場所、「隙間の場所」とでも言うべきものが、人間には必要だと思います。陽日のピアノレッスン室も、学校の中では隙間の場所だろうし。あと本の中もある種、隙間の場所だと言えます。隙間がなかったら、窮屈過ぎますよ。外でも家でも一人になれる場所がないと。いくら愛していたとしても、ずっと一緒にいたら息がつまってしまう。
井戸川 確かに、本も隙間の場所ですね。南天文庫で語られるあやめの話も、本と似ています。人のお話も隙間の場所なのかもしれません。
江國 そうですね。人から聞く話も、本の中も、ここではない。
井戸川 自分から離れて、逃げ込む隙間なんでしょうね。















