世界にまで通用すると思っていたグループ「赤い鳥」とは?
『翼をください』が発表されたのは1970年の11月、三重県志摩郡のヤマハのリゾート施設『合歓(ねむ)の郷』で開催された、プロの作曲家によるコンテストの会場においてであった。
作詞した山上路夫は、1960年代後半に作曲家のいずみたくと組んで、『世界は二人のために』(佐良直美)や『夜明けのスキャット』(由紀さおり)などのヒット曲を発表していた。
歌手の個性を活かす品のいい歌詞によって新鮮なヒット曲が生まれたことから、山上には作詞の依頼が次々に舞い込むようになった。
30代前半の頃はヒットメーカーとして、年間300曲ほど書いていたという山上が、年下の音楽家だった村井邦彦と一緒にアルファミュージックを設立したのは、ソングライティングをするなかで意気投合して、将来への夢が共有できたからだったという。
「普通で良かったですね。それまで組んできた歌謡曲の先生って恐ろしかったんだけど、クニ(村井邦彦)は全然そんな感じじゃなかったから。なんとなく普通にすうっと意気投合した感じ」
欧米のようなスタンダードになる楽曲を目指していたアルファミュージックについて、村井は自著でこう語っていた。
アルファミュージックは、僕と山上路夫が中心となって1969年に始めた音楽出版社で、作家の自由な発想で音楽制作をすることと、国際的な音楽ビジネスに参入することを目的としていた。最初に契約した作家は、当時高校生だったユーミン(荒井由実)、最初に契約した外国曲が「マイ・ウェイ」だった。
そして村井は、関西で活動していたアマチュア・グループの「赤い鳥」を、ヤマハに頼まれてシングル『人生』とアルバム『Fly With The Red Birds』で、1970年6月にプロデビューさせている。
世界にまで通用すると思っていた「赤い鳥」にかける期待は大きく、ロンドンでレコーディングされた『Fly With The Red Birds』には、海外から一流のソングライターやミュージシャンに参加してもらった。














