どの家族も、面白くないはずがない

井戸川 江國さんが以前、「書きたいもののひとつに家族がある」とおっしゃっていたのを読んだのですが、ピンクの家の人たちは、その仲間版というか、三つの家族が集まっています。
江國 仲間版ですね。私は家族の話を書くのが大好きで。
井戸川 私も好きです! でも自分でもなぜ好きなのかわからない。
江國 家は閉ざされているから、外からは見えない。例えばお友達の家に遊びに行ったら、一瞬は見えるけれども、普段の様子とはいえないですよね。どの家族にもそういう謎があって、面白くないはずがない。
井戸川 ピンクの家の人たちは、血縁だけではない家族と言えますよね。
江國 これまで血縁や婚姻関係があるのが家族として「普通」とされていたけれども、どんどん変わってきていますね。もっと変わっていい、もっと自由になればという気持ちが私の中にはあります。世の中の変化とともに、私の小説の家族像みたいなのも変化している。
 家から駅まで歩いて三十分ぐらいなんですが、今日はお天気がいいから公園を抜けて歩いてきました。そしたら中学生か高校生くらいの制服の男の子二人が手をつないで歩いていたんです。昔だったら、男の子同士が手をつなぐことってあまりなかったし、からかわれたりもしただろうし。二人の関係はわかりませんが、でも彼らの周りには、からかう人がいないんだろうなと。いい世の中になってきていると思う。
 だからピンクの家の人たちが、七〇年代に血がつながっていない家族として生活していたのは、早かったともいえますね。
 ピンクの家で暮らした子どものひとり、功は独身ですが、道で見かけた男性を「拾って」家に住まわせたり、その人がまた違う人を拾ったりしている。功の家もひとつの家族の形だと思います。いろんな家族、あるいは家族のようなものがある方が面白いし、自由でいいなと思っています。
井戸川 功には真実子という姉がいます。私は家族を書くことと同じくらい、姉妹を書くのも好きで。
江國 井戸川さんは御姉妹?
井戸川 姉妹です。三姉妹の長女です。姉妹の機微はなかなか……
江國 面白いですよね。
井戸川 江國さんも御姉妹ですよね。江國さんの書く姉妹が大好きです。実際のことをもとに書かれているんですか? と聞かれますか?
江國 いっぱい聞かれます。
井戸川 私もよく聞かれます。でも自分の体で感じて、自分の知っている言葉で書いているから、結局は自分のことといえるか、とも思います。
江國 もちろん自分がやったことや言ったことを、そのまま書いているわけじゃないんですが、でも絶対に出ちゃいますよね。自分の言ったこと、やったこと、見聞きしたことが。
井戸川 きっと自分の姉妹関係を、他の愛情や友情に投影したりもしているだろうし。
江國 それを裏返して書いてもいいわけだから。逆もまた真なりと。
 井戸川さんは兄弟を書くのも上手だと思いました。『無形』で今まで一緒に寝ていた兄弟の部屋が分かれて、弟は乗り気で喜んでいる一方、兄は慣れないなと感じるシーンがあって、それがすごく切なかった。
井戸川 上の方が執着していたりしますもんね。
江國 します。うちは完全にそう。妹は、「えっ、そうだっけ?」って思い出をなんでも忘れて、姉の方が感傷的。
井戸川 兄弟や姉妹のように、一緒に育った者同士は何かありますよね。ピンクの家の子どもたちも、血はつながってなくても一緒に育っています。
江國 そうですね。一緒に育つっていうのは大きいことだよね。
 井戸川さんの『私的応答』(講談社)に出てくる銀史(ぎんし)銅子(どうこ)は兄と妹ですけど、銀史はいいお兄ちゃんですよね。セミ取ってくれたり。
井戸川 台車を乗り回して高いところから飛び降りたりして。
江國 銅子は小さい頃に、銀史と一緒に山にセミを取りに行って、地面が崩れる経験をしますよね。銅子は大人になって、家を出た銀史とは音信不通になっている。でも震災があった瞬間、「私ら見とったもんね、地は割れるもんね、と蝉を握ってた頃の兄ちゃんの肩を叩きたい」と銀史を思い出すでしょう。
井戸川 二人は、「地は割れる」と知ってたもの同士なんです。
江國 読んでいて、ああ、やられたと思いました。この言葉、私はずっと覚えていると思う。それで何度も反芻してしまうと。

「留めておけない世界の細部について」江國香織×井戸川射子『外の世界の話を聞かせて』刊行記念対談_4

縛りがない方が、信じられる

井戸川 夫婦は選べますが、親も子も兄弟姉妹も選べない。その逃れ難さも書きたいし、そこから離れた個人も書きたい。いろいろな関係を書いてみたいという思いがあります。
江國 井戸川さんの『私的応答』の中に、ミサンガのシーンがありますよね。短期留学した子同士でミサンガを買う。
「友だち何人かでお揃いのミサンガ、ただただ市場でその場にいただけのメンバーで買ったミサンガ、でも同じ場におったということは、何よりも大事なことやから。パパやじいちゃんなんかより、近しい存在ということやから」と。
 親友の誓いではなく、たまたまその場に居合わせた者同士のお揃いのミサンガ。その子の家は父も祖父もいなくなってしまったから、血のつながった家族よりも、あの時市場にいた人たちの方がある意味で確か。その感覚はよくわかります。約束のない仲間感は、清潔で、かえって信じられる。
井戸川 その場に一緒にいた、それだけは確かだから。
江國 『外の世界の話を聞かせて』でも高校はあまり愉快な場所として書いていませんが、クラスメートが何人か一斉に噛んでいるブルーベリーのガムの匂いを陽日が感じる場面があります。学生時代は、友達か、同じグループか、とかに関心が向きがちですが、少なくともそのときに同じ場所にいたのは厳然たる事実なんです。
井戸川 友情は不確かなものですよね。
江國 井戸川さんの小説の登場人物は、友情なんてすぐ消えると思っていますよね。
井戸川 友情を、儚いから良いと思ってる節があります。でも私は江國さんの書く親友や友人が大好きで、強固なものだと信じられる感じがします。
 例えば『ホリー・ガーデン』の果歩と静枝は学生時代からの長い友人ですが、お互いに聞けることと聞けないこと、触れられない部分があって、暗黙のマナーのようなものがある。
江國 若い頃に読んだ、昔のアメリカの小説で、家族や恋人が信じられないのはわかる、でも友達が信じられなくなったら終わりだというような言葉があって。
 誰が書いたのか忘れてしまったんですが、納得したんです。『私的応答』のミサンガはそのような話だと思いました。一生一緒にいるとか、他の誰とも違うとか、友人同士で一瞬そう思うことがある。その一瞬を信じたい。友達や仲間は約束がないから、縛りがないからこそ、信じられるのかもしれません。