「江川は凄いよ。あのオヤジを感心させたんだから」
三連覇を達成し、江川は三度目となる日米大学選手権日本代表に選ばれる。全国の大学生プロ予備軍の集まりである77年の学生日本代表に、東海大学の原辰徳が1年生で代表に選出。マスコミは、ここぞとばかり四年の江川と一年の原を新旧スターとして担ぎ出そうとした。
全日本大学選手権で夢の対決があるかと思われたが、法政が準決勝で敗れて流れてしまった経緯もあり、6月15日から24日までの10日間の合宿では、他のメンバーをよそに江川・原の一挙手一投足が俄然注目された。
原が江川の球を初めて間近で見たのは、前年の大学選抜チームと三協精機との壮行試合のときだ。前座で東海大相模と松商学園が対決していたこともあって試合後スタンドで観戦し、異常な伸びのボールが眼前に飛び込み慄いた。
一世紀も続く長いプロ野球の歴史のなかで生まれ持った生粋のスターといえば、原辰徳だけだと謳われる。名将・原貢の息子として生まれ、高校一年夏から甲子園に出て持ち前のルックスと強打で一躍スターとなり、大学を経て順当に巨人ドラフト一位に指名。
ON亡き後の巨人軍四番を長らく務め、巨人軍の監督になっても歴代一位の1291勝を挙げるなど、高校一年からスターの名に恥じない野球人生を歩み続けている。
原貢の名が一躍全国区になったのは、65年夏の甲子園、三池工業の監督として初出場初優勝させてからだ。翌年から東海大相模の監督となり70年夏の甲子園を制覇した。
74年から長男・辰徳が東海大相模に入学し、父子鷹として話題になり、ここから三年間の高校野球界は原フィーバーに明け暮れる。
この原フィーバーの前が奇しくも江川フィーバーである。全国でも有数な厳しい監督として有名であり、滅多に褒めない原貢が江川卓のことだけは感心した。当時東海大相模のショートとして活躍した江川世代の林裕幸(元明治安田生命監督)が述懐する。
「東海大相模と作新は毎年6月に定期戦を行っており、高校3年6月に作新学院グラウンドで練習試合をしたのよ。雨でグラウンドがぬかるんだ状態で試合は始まって0対0の終盤、相模にチャンスが来た。
ワンアウト後、甘く入ったカーブを打ちツーベース、次打者が送り二死三塁。この試合初めての得点チャンスで次のバッターは左バッターで俊足。オヤジ(原貢)はいちかばちかセフティーバントのサインを出してうまく三塁側に転がった。
江川が猛ダッシュしてボールを摑もうとした瞬間、足をとられ尻餅をついてしまった。『点が入ったぞ‼』と喜んだのも束の間、江川は尻餅をついたままボールを取って一塁にひょいと投げ、アウトにした。試合終了後、オヤジは呆れ顔で言った。
『江川は凄い。あのときはやっぱり点が入ったと思った。ありゃ、大物だわ』。江川は凄いよ。あのオヤジを感心させたんだから」













