「入学当初の江川は相撲取りかというくらい太っていた」

生きている限り寿命があるのは誰だって知っている。不満なのは、それが平等でないことだ。

アスリートに限ってはそれが顕著だからやるせない。もちろん個々の特性や環境もあるが、プロフェッショナルな環境と技術指導が受けられるのならプロ入りは早いほうに越したことはない。特に、高校在学中にスカウトから一定の評価を得たピッチャーはすぐにプロ入りしたほうがいいともいわれている。

振り返ってみれば、超高校級と謳われたピッチャーが大学へ行き、そのまま順調に成長していった例はひとりも思い浮かばない。皆、大概大学で潰されてしまうからだ。肩を酷使する大学野球の4年間は投手にとってあまりにも長すぎる。 

ちなみに、大学を経由してプロに進んだ甲子園優勝投手は13人いる。現役でいえば、2020年センバツ優勝の村上頌樹(智辯学院-東洋大-現阪神)が一番の出世頭だ。大学卒業後すぐプロ入りした夏の甲子園優勝投手は5人のみ。

ただ、小川淳司(現ヤクルトGM)と西田真二(現セガサミー監督)は大学で打者転向、石田文樹(早稲田中退-日本石油−大洋)は大学を中退し社会人野球経由のため、夏の甲子園優勝投手で大学卒業後にピッチャーとしてプロ入りしたのは、後にも先にも斎藤佑樹(元日ハム)と島袋洋奨(元ソフトバンク)の二人だけである。

この二人も高卒からプロ入りしておけばと、たらればで語られる。そう考えると、高校時の衝撃の記録ラッシュには劣るものの大学でも怪物の名に恥じぬ活躍を見せた江川卓は、やはり別格だ。

すったもんだありながらもあの怪物が舞台を移して「神宮の星」となって帰ってくることになり、野球ファンはとりあえずひと安心した。そして東京六大学リーグで江川が見られることを純粋に喜んだ。

なぜ「超高校級投手」はきまって大学で消えるのか? 唯一の例外ともいえた法政・江川卓の衝撃_1

大学における江川卓怪物伝説のスタートは、1974年法政一年秋季リーグから始まったともいえる。

入部初日にまるで相撲取りかというほどの体格で現れた江川に、OBの藤田省三(元近鉄監督)が計画的にトレーニングメニューを考案し、四年生の控え捕手の髙浦美佐緒がマンツーマンで練習に付き合った。

感覚を取り戻すために監督の五明も交えてNHKにまで出向いて選抜甲子園時のビデオを観て何度もフォームの確認を行ったりもした。江川の教育係りだった髙浦も、江川のデカさに驚いた。

「江川は、ただでさえデカいのに入学当初は相撲取りかというくらい太っていましたよ(笑)。本隊とは別で隣の法政二高のグラウンドで二人きりでずっと練習してました。藤田(省三)先生が江川に故障しないフォームをずっと教えていて、藤田先生から『俺が来れない日はお前が教えるんだぞ』と言われて、先生が来れないときにピンポイントの部分だけ指導しました。

夏の関西遠征の頃からやっと身体も絞れて球も行きだした感じです。球質は綺麗なスピンがかかっているボールでしたね。簡単に言うと、球の出所は見えなくて途中から見え出して4、5メートル先から急にピュッとボールを投げられるようなイメージ。

だから準備をしてるんですけど振り遅れちゃうんすよね。普通は丸いミットを使いますけど、江川のボールはスピンがかかるので細長いファーストミットのような形のミットを使ってました。そうすると、ファウルチップがちょうど網の上のところに引っかかるんですよね。とにかく潰しちゃいけないということで当時は大学特有の制裁があるんですけど、自分がいるところではさせなかったですね」