結果的には、日本一の貧乏球団から当時、日本一の金持ち球団への転身となったが、換言すれば、西鉄が球団を手放して以降、6年間必死に耐え忍んでバトンを安定企業に渡すことに成功したと言えよう。
剛腕オーナー、暴力団に蹂躙された試合、新球団設立、責任企業を持たない中での営業戦略…。坂井はプロ野球界の格差を知り尽くし、選手たちと苦楽を共にした叩き上げであった。
そしてこの頃には「プロ野球は公共財」という確固たる信念が確立されていた。それであればこそ、ビジネスの原資とも言える現場で白球を追う者の社会的な地位の向上に無関心ではいられなかった。
「プロ野球は公共的な財産だとの考え方。それは私にとってのまさに発見だった。自分が艱難辛苦球団を経営して行く中で発見したんだよ。でも中畑の感受性はそんな僕よりも瑞々しかった。二軍の選手の家族も食べさせていけるようにと、言っていることは正しい。
方法論は少し危うかったけれど、中畑が言っていたことは絶対的に正しかった。博打で言うと当たりだね。一方で僕の場合、(中畑たち)選手たちに比べれば、一応、年齢とキャリアには一日の長があるからね。(組合を作る上で)今、君たちは何をすべきか。どう動くのが良いのか。それをまた話した。
経験上、組合設立に向けて重要なのはスピードと情報管理だと思っていたから、これは長引かせずにすぐに決着をつけないと、取り返しがつかんぞと。(経営者も選手もプロ野球界において)共存していくべき同じ仲間だからね。つらいけど、頑張れと伝えたかな」
共存すべき仲間という思考。そこにたどり着いたのは、ロッテ、太平洋、西武、ダイエーとジェットコースターのようにそれぞれ背景も経営母体も異なる球団を渡り歩いた結果である。中で最も印象深かったのは、西武時代だという。くしくも時代的に選手会労組と対峙したときであった。
「チームとして物凄い集団が出来ると思ったのが、西武だった。いろんな選手と向き合って来たけれど、西武の荒くれどもは知識欲も闘争心もあった。根本、広岡、森とリーダーが将来を見据えていていたので、僕は監督とは一定の距離を置きつつもそれを精一杯サポートした」