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#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?
#3 ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか

長嶋はぶん殴った

昭和56年(1981年)に生まれた評者は、長嶋茂雄の活躍を目にしていない。両親は南海ホークスからの流れで、ダイエーに声援を送っていた。「実力のパ、人気のセ」が家庭内の符丁だったので、長嶋のイメージといえば『かっとばせ キヨハラくん』に出てくる、邪気のないトボけたおじさん程度のもの。

しかし、中村哲也著『体罰と日本野球 歴史からの検証』(岩波書店)に目を通すと、実像はずいぶん違う。長嶋は邪気のないおじさんどころか、ピッチャーの西本聖に何十発もの平手打ちを喰らわせ、キャッチャーの山倉和博を拳骨で殴るような男だった。それも、ただ一度の出来事ではない。〈長嶋監督の思い出を改めて追いかけると、真っ先にゲンコツが浮かんでくる〉【1】というほどだ。

〈のちに長嶋はこのこと【選手への体罰/評者註】について「彼らが若くて、これから素晴らしい選手になる可能性があるからこそ手を上げた。どうでもいい選手なら頭をなでておしまいだ。特にあの場合、口より手のほうが効果があるとみた」と述べている。二人【西本と角三男/評者註】が有望な選手であること、「手のほうが効果がある」などを理由にして、長嶋は監督として選手に体罰を行使することを正当化したのであった〉【2】

著者の中村は、テレビや芸能の世界ではほとんど不可侵の存在になっている長嶋を惰性で黙認するような真似はしない。しかし同時に、彼は野球を愛してやまない研究者でもある。

王貞治(左)と長嶋茂雄(右)=1970年2月、宮崎県営球場 写真/共同通信
王貞治(左)と長嶋茂雄(右)=1970年2月、宮崎県営球場 写真/共同通信
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当然の帰結

1872年、お雇い外国人教師がボールやバットを日本に持ち込んだところから野球の歴史が始まった。

〈当時の野球は、遊び仲間から「常連」となった者を中心にして、学校の公認や経済的援助のないインフォーマルな集団での活動であった〉【3】

その中心は、社会的エリートを養成するための東京帝大(現・東京大学)や慶応義塾大学、東京商業学校(現・一橋大学)を始めとした高等教育機関だった。1886年の発足からほどなく、旧制高校の頂点に位する野球部は黄金時代を迎える。そして「当然の帰結」として猛練習や制裁が生まれ、学生野球界の覇権を失うにいたった。日本野球における「体罰発生の方程式」が、基本的には一高の帰趨と相似形であることを立証したのが、本書の眼目のひとつである。

そして、じつはこの方程式が、著者の想定した野球という枠組みを超え、まさにいま日本が打ち出しつつある「労働力としての移民政策」の不健全性を裏付けるものであるというのが、本コラムの眼目となる。