破談となったペプシコーラの「ライオンズ買収」
1969年から1971年にかけて、プロ野球界で相次いで発覚した「黒い霧事件」。球界関係者が、暴力団からの金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の事件は、西鉄ライオンズを直撃し、これに与したとされる主力選手が大量に処分されていた。
一気に弱体化したこのチームも身売りされることが決まると、「首相の元秘書ならなんとかしてくれるだろう」という乱暴な期待の下、またもロッテオリオンズのオーナー・中村長芳が事態の収拾を託された。
ライオンズの譲渡先としては当初、ペプシコーラが好意的な反応を示していたが、破談に終わってしまう。
ついにパ・リーグは崩壊し1リーグ制に移行されるのかと思われたが、中村はなんと私財を投げうって個人で球団運営会社(福岡野球株式会社)を作り、個人所有チームとして再出発させた。これは事態収拾を丸投げにしてきた関西の名門チームへの意地とも言われた。
1972年10月に西鉄からの買収が発表され、ここで若干38歳の坂井保之が社長として着任させられた。経費削減で事務所は坂井の自宅住所に登記された。親会社は無く、ゴルフ場開発会社の太平洋クラブを年間2億円でネーミングライツのスポンサーにつけての綱渡り経営であった。自己資本の無い中での金欠状態は推して知るべしである。
太平洋クラブライオンズからドラフト3位で指名された後の阪神監督、真弓明信は入団会見がホテルの金屏風前ではなく、雑居ビルの喫茶店で行われたことを記憶している。練習ボールを他球団から黙って拾い受けたり、選手の夜食代や移動費を削っての球団運営だった。
その頼みの綱の太平洋も農地法の改正で農地のゴルフ場への転用が容易にできなくなると、チームにはスポンサー料が入らなくなり、以降、坂井は球団存続のために金策に明け暮れることとなる。
1976年にはライターの製造会社であるクラウンガスライターと渡りをつけ、2年間の冠スポンサー契約を結んだ。1978年のドラフトで法政大学の江川卓の指名権を獲得するも入団は拒否され、国土計画(=西武)への身売りをするに至った。
「君たちは西武のフランチャイズである埼玉に行ってもらう」と坂井がロッカールームで選手たちに告げた際には、まだ海のものとも山のものとも分からぬ新球団にいきなり行かされることを不安に感じた伊原春樹や竹之内雅史ら、生え抜き選手たちから、厳しい言葉を浴びせられている。