「ハチ、坂井さんに連絡を取りたいんだ」

東京・調布市仙川の焼肉店「ホルモン家族」。煙の向こうに中畑清がいる。新鮮な部位をそれぞれ楽しみながら、プロ野球選手会労組発足時の話に聞き入る。

このユニオンの初代会長はひとしきり語り終えると、「やっぱり、これをテーマにするなら、機構側にいた人にも聞いた方がいいな。何かと俺に親身になってくれたじっちゃん(長谷川実雄元読売巨人軍代表)はもう亡くなったけど、もうひとり世話になった坂井さんはご健在なんだから、あの人にも当たるといい」と言った。

選手会労組発足時にプロ野球機構の福祉委員会にいた坂井保之のことである。当時の坂井は西武ライオンズの球団代表という立場にありながら、組合設立に動くメンバーを激励し、水面下で助言さえ送っていたという。また、奔走する中畑に「これが実現したら、凄いことになるぞ」とも告げていた。

中畑は箸を置くと、スマホを取り出して、駒沢大学の後輩の登録番号を押した。受話器の向こうは、西武の主力選手時代に坂井と関わりの深かった人物だった。

「ハチ、坂井さんに連絡を取りたいんだ」

駒大時代、寮の部屋子だった石毛宏典から携帯番号を聞き出すと、自らかけた。残念ながら、番号はすでに使用されていなかったが、その振る舞いから、すでに40年近く経っているにも関わらず、かつての巨人の四番と西武の代表の往時における信頼の強さが感じられた。
 
あらたに坂井の自宅の電話番号を入手してダイヤルすると、本人が電話口に出た。取材をしたい意向を告げると、「では家に来られますか」と快諾の返事が即座に返ってきた。 
 
住所を頼りに鎌倉の自宅を訪ねた。出迎えてくれた坂井は今年で91歳。それでも背筋は伸び、口調も快活である。

坂井保之氏
坂井保之氏
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あいさつもそこそこに趣旨を告げると、開口一番、ポジティブな記憶が飛び出して来た。 

「私が西武にいて、最初にその話(プロ野球労組設立の動きを)を聞いたときは、中畑君に向かって、それはいいことをやろうとしてるね、と伝えたんですよ。選手たちの地位は低すぎた。革命を起こせと」 

坂井は球団経営に際し、常々、選手本位の姿勢を貫いていた。ちょうど労組が設立された1985年に中日から西武に移籍していた田尾安志から、筆者はこんなエピソードを聞かされていた。