保育園で泣いていた
あの頃のままかもしれません
〈世界が、こんな自分でも大人になれる場所であるなら、きっと生きる価値はある〉
〈歳を取るというのは、暴れ馬のような自分を少しずつ、楽に乗りこなせるようになることなのかもしれない〉
2012年3月から2022年、39歳から49歳まで。写真家の長島有里枝さんが、激動の10年間を記録したエッセイ集『こんな大人になりました』が刊行されます。
美大在学中に写真家としてデビューした長島さんは、その後、文筆の仕事もしながら、フェミニズムを学ぶために、一時、大学院生になりました。プライベートでは28歳で出産し、離婚後は一人で子供を育てています。女性として、写真家として、保護者として、生活者として。自身や家族、パートナーや友人、時に理不尽な社会に真摯に向き合い、深く思考して紡がれる言葉は、強く優しく、ユーモラスで、読む者の心深くに届きます。そして歳を重ねて生きていくことを慈しみ、励ましてくれます。刊行にあたり、お話を伺いました。
聞き手・構成=砂田明子/撮影=志田彩香
整合性を取ろうとせず、
そのとき、気になったことを書いた
―― 10年間、文芸誌「すばる」に連載していたエッセイを一冊にまとめられました。
10年も続くなんて思っていませんでした。同じことばかり書いているんじゃないかと心配で何度も読み返したんですが、意外とそうでもなくてほっとしています。
―― 仕事、家族、子育て、苦手な掃除、政治、大人の恋愛、パートナーとの関係、趣味のバレエ……書かれているテーマは多岐にわたります。どのように考えられていたんですか?
基本的に、私は目の前のことに過集中してしまうタイプ。だからそのとき、気になったことを書いていただけなんだと思います。エッセイにかぎらず、前後を考えて行動していないというか、行動できないんです。整合性を取ろうとしていないし、自分の今の行動が、以前の行動を打ち消したとしたら、それはむしろ良いことだというイメージが自分のなかにあります。
それでも変われない部分のほうが多くて、たとえば3歳のとき、保育園で何か月も一日中泣いて過ごして、ドクターストップ退園したんです。先生がすごく嫌いだった。昼寝しない子には注射するよ、と幼児を恫喝する、今考えるとヤバい人でした。子供だから、言葉や知識は持っていなかったんですけれど、腑に落ちなかったんでしょうね。そういう人の言うことを絶対に聞きたくない、という気持ちは今も強くあります。その意味では、大人になっても、保育園で泣いていた、あの頃のままなのかもしれません。
―― 長島さんは武蔵野美術大学在学中に家族のヌード写真を発表してパルコ賞を受賞し、デビューされました。その後、文章を書かれるようになり、『背中の記憶』(講談社文庫)では講談社エッセイ賞を受賞されています。書くことは、長島さんにとってどのような営みですか?
小学校の作文コンクールで入賞したことなどもなく、いつもおしまいのところに「長島さんはどう思ったのかな?」と先生から赤字のコメントをもらう子でした。でも考えがなかったわけじゃなく、原稿用紙が足りなかっただけだったと、文章を書くようになってわかりました。小学生って、原稿用紙1枚とか2枚くらいしか与えられないじゃないですか。あんなことがあった、こんなことがあったと描写しているうちに枚数が尽きてしまい、自分の気持ちに辿りつかないまま終わってしまっていただけで、自分のなかに書きたいことはたくさんあったんだと思う。
書くきっかけを作ってくれたのは、角田光代さんです。写真の仕事だけで、一人で子育てをしていくのは大変だなと苦しい思いをしていた頃、角田さんが「長島さんは文章も書けるんですよ」と、ご自身の担当編集者にご紹介くださったんです。そのご縁で『背中の記憶』を書き、それを読んだ「すばる」の編集者から声をかけてもらって連載が始まりました。
自分のためだけでなく怒る
―― 長島さんの日常生活が綴られたこの本のなかで、息子さんは小学生から大学生になります。〈働きながらの子育てはなんて大変だろうと思う。それなのに頑張っても達成感が少なく、恒常的な「申し訳なさ」がいつもつきまとう〉。朝5時起きの6年間の弁当作りは、〈仕事で賞を貰うより、こっちのほうがよっぽど難しい〉。子育ての切実な記録としても共鳴する言葉や思考が多いと感じました。
子育てで感じてしまう「申し訳なさ」は、どんな母親であろうとやっぱりある程度つきまとうんだろうと思います。自分がどれだけできているかは実は関係なくて、ひとえに世の中の母親への要求や期待が大きすぎて、何をやってもダメと言われている気がする仕組みになっているから。日本の母親が背負っているものを、もっと父親も、自治体なども背負っている国もあると思うんですけれど。
子育てにかぎらず、私はこのエッセイでいろいろと怒っています。でも本来、怒るのは苦手です。若い頃は、自分が我慢すればうまくいくと思っていた時期もあったのですが、結局我慢しきれない性分なのが早いうちにわかった。それから、私と同じように、今の状況って嫌だなとかヘンだなと感じている人がそれなりの数いるのを知って、自分のためだけでなく、同じような状況にいる人の顔を想像しながら怒るようになりました。
―― 息子さん以外にも、エッセイにはご家族がたびたび登場します。互いの距離が近く喧嘩が多いけれど、似ているところも、受け継いでいるものも多いご家族だと感じました。
幼少期から親に対等に意見を言って、怒られるということはなかったですね。父は怖かったし、貶されてきたりもしましたが、抑圧はなかったです。母も弟も含め、「バカだなぁ」とか「何やってんの!?」と言い合える家族ですね。
―― そうした環境は、ご自身にどのような影響を及ぼしたと思いますか?
たとえば大学とか仕事現場では、裕福で文化資本の高い家庭で育ったんだろうな、と感じる人と会う確率がとても高いです。今、いくつかの大学で授業を持っているんですが、この前学生に、私は40平米・2DKの団地に家族4人で住んでいたと言ったら、驚愕されました。
でも、受け継ぐ「資本」のない環境だったからこそ親の顔色をうかがう必要もなく、自分がやりたいことだけをやってこられたと思うんです。親のほうも、いいんじゃない、やりたいことは何でもやりなさい、と軽く言える立場だったから、私はこんなふうに生きてこられた。そういう環境下で育まれた自分の振る舞いやメンタリティにプライドを持っているし、失くしたくないと思っています。それは文章を書いているときも、意識していることです。
フェミニストであることはもはや当たり前
―― この10年は、大学院でフェミニズムを学び、『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』を出された期間とも重なります。デビュー当時、長島さんの写真は男性評論家たちに「女の子写真」と揶揄的に評されました。そうした言説に当事者から異議申し立てしたこの本は、大きな反響を呼びました。このエッセイには、修士論文や本の執筆と格闘する〝裏側〞や、「女の子」の概念の変遷なども触れられています。
私の写真が年長の論客に「女の子写真」と呼ばれたとき、違和感を覚えても、言い返す手段と言葉を持っていなかったんです。反論するためのボキャブラリーを獲得するためにフェミニズムを学び始めて、この本にも書いたように必死の思いで修論を書き、その後、本を出すこともできたんですが、大学院に入った2011年当時と今では、フェミニズムをめぐる状況はものすごく変わりましたね。
―― 〈世の中がここまでフェミニズム・フレンドリーになるなんて、再就学したときは思いもしなかった〉と。
ドラマが好きなので、TVer(ティーバー)でよく昔のドラマを見るんです。10年前くらいだと、女性が友達の男性に殴られるシーンが出てきたり、今ならあり得ない表現が出てきたりして、変化を実感します。私としては、フェミニストであることって、もはや当たり前のこと。女性と男性は対等ですなんてわざわざ言わなくても、もはや自明の理だろうと思っていたのですが、そうじゃない人が今なおけっこういることにびっくりしますね。
ただ、あの本を書いたあと、「フェミニズムの人」とばかり言われるようになって、しんどかった時期はあります。
―― セルフイメージとパブリックイメージの乖離については、この本でも言及されていますね。本当は〈地味にまとまった人生〉なのに……。
酒豪で破天荒と思われがち、とか。もちろん私がフェミニズムの人であること、それはその通りなんですけど、一つのイメージがつくのはしんどいんですよね。
そもそも私が憧れてきたかっこいい女性って、学者とか偉い人ではなく、カーラー巻いて下着姿で煙草吸って、近所では結婚もしないってうわさをされているんだけど、小学生の女の子にはめちゃくちゃ優しい、ちょっと変わった隣のお姉さんやおばさんなんです。そういう女の人に憧れ、逞しさを感じていたから、自分もそういう存在になれたらと思っているんですね。「おばさん」は、すごくなりたいジャンルでした。
―― 〈中年こそ誕生日を祝う、盛大に。〉というエッセイに見られるように、歳を重ねること、歳を重ねて変化していくことを肯定的に捉えられていて、勇気づけられます。
自分のことを、「大統領」の称号と同じくらいの誇らしさでおばさんと呼んでいます。家でケア労働をしている女の人たちって、おばさんとか、80年代だったらオバタリアンだとか呼ばれて、昔も今も地位が低いですよね。でも、私から見ると高いコミュニケーションスキルをお持ちで、それによって自分の望みをかなえたり、人を助けたりしているんです。
以前、電車で座っていたら、おばさん二人組が乗ってきたんですよ。私の前に立って、一人がもう一人に「膝、大丈夫? 手術したんでしょ?」って聞いている。座りたいのは私じゃなくて、膝の悪いこの人なんですよ、という体で、それを大きな声で言うから、思わず私と、私の隣に座っていた若い男の子が席を譲ると、「ええっ、悪いわねえ」とすごく恐縮してくれたんだけど、全然悪いと思っていない感じがかっこよくて(笑)。その上、鞄から個包装の豆菓子をがっと取り出して、「これ、食べるでしょう」って手に握らせてくる。この一連のスキルに、完全にやられちゃいました。自分の望みをかなえて、他人にも嫌な思いをさせない高い技術、すごくないですか。車内でも自分の流儀で我を通そうとして、肘で押したりぶつかってきたりする男っていますが、そういう人は彼女たちの人間力を見習うべきだと思う。私も言いたいことを言うときは、こういう“おばテク”を使っていきたいと思っています。
タイトルの“こんな”に込めた思い
―― 本書のなかに「第三者の当事者性」について考える一編があります。当事者の発言を傾聴しつつも、「第三者」としてできることもあるのではないか、という長島さんの問いかけがきっかけになり、武田砂鉄さんは『父ではありませんが 第三者として考える』という本誌連載を始めたと振り返っています(「青春と読書」2023年2月号)。最近は既婚/未婚、子供がいる/いない、などの条件で分けられがちですが、自身の体験を超えて発言や連帯していくことの大切さを、エッセイの随所から感じました。
この本には子育てのことも書いていますが、それは私の実感なので、母親だからといって共感できるわけではないと思うし、しなくても大丈夫なんです。話題になった『母親になって後悔してる』(オルナ・トナート著、鹿田昌美訳)にも、とても共感しました。息子がかわいいとか大切という気持ちとは別に、できればすぐにお母さんをやめたいと、私もずっと思ってきたから。そういう経験なしに、わざわざ大学院を受験してまでフェミニズムの勉強なんかしないでしょう。
その人の立場に立たなければその人の気持ちがわからないのだとしたら、極端に言えば人は一人で生きて死んでいくしかないわけですよね。でも人間は一人では生きていけないし、私たちには想像力がある。お互いに違うからこそ自分だけがもっているものがあるはずなので、それを交換しあえばいいのになと思います。
―― 10年の間に長島さんはパートナーに出会い、息子さんとパートナーの3人暮らしが始まりました。辛い別れもありましたが、エッセイの最後で、新しい家族、猫の小太朗さんを迎えます。新たな物語の始まり、さらなる変化を予感させる素敵なラストでした。
今日、猫も一緒に写真を撮ってもらったのですが、すごく嫌がっていました。やりたくないことはやりたくないという、猫の性質は犬とも少し違います。そんなふうに、自分の気持ちに忠実なこっちゃんを私は好きなんだから、私だってこのままで愛される価値あるよね、という自信や自己肯定感を彼からもらっています。こっちゃんが来て、みんな幸せそうです。これから息子とパートナーと私の間で、誰がいちばん好かれるか競争が始まると思います。
―― 当初、10年続くとは思っていなかったということですが、「こんな大人になりました」という予言的なタイトルは、どこから来たのでしょうか?
いつまで続くかを考えていなかったので、一編一編、「こんな私ですけどよろしくお願いします」という意味を込めて付けたのと、肩書だけ見ると自分ってなんか違う誰かみたいに思えるので、近しい人しか知らない「しょうもない私」のことを書きたいという初心を“こんな”に込めました。
書くときは、誰に向けてどんなふうに書くかをかなり意識しています。この本は、自分と世代の近い友達を思いうかべながら、軽く楽しく読んでもらえるように、コミカルな感じにもしました。大人になったらちゃんとしなきゃと思い過ぎている人が多いけれど、大人になっても泣いて喚いて、部屋を片付けられず、家で裸で踊ってる人もいるんです。若い人が読んだとき、こんな大人でもいいんだ、と思ってもらえたら嬉しいです。