総合的分析によるゲーム批評の
新たな沃野
ついにビデオゲームを正しく批評する本が生まれた。本書を読み終えたとき、書評家でゲームクリエイターである私は、一抹の嫉妬が混じりながらも快哉を叫んだほどだ。
十数年前まで、ゲームは男子や一部のマニアだけが興じる遊び程度の扱いだったが、今ではすっかり市民権を得たと言っていい。実際、ジェンダーや核戦争、差別やケアのような社会や人間の深い問題を描いた作品は珍しくないし、ゲームの持つ能動性「ゲーミフィケーション」が政治やビジネスなどにも活かされているなど、その影響力は計り知れない。それにも拘らず、ゲームが正当に批評されてきたとは言い難い。それはゲーム研究者のイェスパー・ユールの指摘する通り、ゲーム内容とプレイヤーの体験というゲームの持つ二面性によって、作品の評価が定まりにくかったことが深く関係する。つまり、ゲームが持つあらゆる要素やプレイヤーの体験という総体ではなく、各部分を中心に分析したものがほとんどだったのだ。
だが、本書は見事な総合的分析に仕上がっている。例えば、近未来のアメリカを舞台に、増加するアンドロイドとそれに反発する人類を描いた「Detroit:Become Human」。プレイヤーはあるアンドロイドを操作するが、その選択によって世界の未来が様々に分岐するのが大きな魅力だ。藤田はそのストーリーを、人工生命体との共生という伝統的な系譜に位置づけ、黒人差別に代表される差別との戦いのメタファーとして読み解く。それに加えて、プレイヤーによる選択というゲームシステムを、サルトルやキング牧師の論を補助線に、人間が自由を正しく行使することが人として認められる過程と重ねる。作品を総体として分析した見事な批評である。
本書によって、ゲーム批評の歴史は大きく変わるだろう。ぜひ多くの人に手にとってほしい。ゲームに親しみがある人は言わずもがな、馴染みがない人々はゲームがどれだけ先進的な挑戦をしているのか理解できる最良の一冊だ。