七十八歳、老境の素顔
二〇二二年の十月、プロレスラーのアントニオ猪木が亡くなった。子供の頃からプロレスマニアだった僕にとって、猪木はいつまでも「燃える闘魂」であり、決して死なない人だと思っていた。しかし、人間は残念ながら年を取る。日々、老いてゆくのである。椎名誠も僕の中では、そんな一人で決して年を取らない永遠の兄貴だと思っていた。
本書は椎名誠の二〇二一年四月から二〇二二年六月までの日記をまとめた作品である。まず手元に届いたゲラを読み始めて、冒頭から驚いてしまった。かつては世界各国を飛び回り、あらゆる物をわしわしと食してきた野人のような男が、自宅の階段から転がって剝離骨折をしたというではないか。以前の椎名誠なら階段は破壊しても、骨折などするはずがない。それが全治二か月から三か月だという。重傷なのだ。そして、二〇二一年六月には新型コロナに罹患し入院を余儀なくされている。退院後はコロナ後遺症もあり、自宅の中ですらスタスタと歩くこともできなくなってしまったという。本書に描き出された椎名誠は、かつての強靭な肉体と旺盛な好奇心に溢れた椎名ではなく、世の中の出来事を静かに見つめる文学者的な老人・椎名誠の姿である。
通常、かつての強い人間が、老いた現在を描こうとすると露悪的になり鼻白らみがちだが、本書に描かれている椎名誠はあくまで自然体である。例えば取材を受けた帰りに、ちょっとビールを飲んで転倒してしまい少し落ち込んでみたり、一本五百円の焼き鳥に怒ってみたり、銀行のATMが使えないことからフリコメ詐欺にもあわない免震体質の老人であると自分でいう。カッコも付けなければウソ偽りもない七十八歳の日常生活がここにある。かつての椎名のイメージとはほど遠い、つげ義春の世界観に同調し、西村賢太の私小説を敬愛する素顔の椎名誠が垣間見えるのも面白い。また、本書のために書き下ろされた「三人の兄たち」と「新型コロナ感染記」だけをみても椎名ファンには必読の書と言えよう。