今の地上波テレビが全方位に気を使っているように見える理由

話がそれた。
かように世代が広がるとそこに共通ボキャブラリーを見出すのは難しくなるという話である。

とくに地上波テレビは「老若男女が見る」ものであり「不特定多数に向けて発信する」ものでもある。ここに出て何かをたとえに出す人の苦労は並大抵のものではない。

たとえば、バラエティ番組の収録で、ツッコミ的な役割を担わなければならなくなったら、「この作品はもう結構世間に浸透したよね、じゃあ説明なしに使っても大丈夫かな。まあでも伝わらなかったらカットしてもらえるだろうし、テロップで画面右下くらいに画像とか注釈とか入れればまあなんとかなるよね。あれ、そういえばこの間オンエア見たら、俺の発言のテロップがなんか変な感じになってたけど、編集したディレクターって世代じゃないから、あれわかんないのか。そうだよなー。そっちも気にしなくちゃならないよなあ」といった感じで全方位に気を使い、結果、やっぱり何か特定の作品や人でたとえるのはやめよう、と躊躇したりするのだ。

確かに難しい。しかしテレビだからといって、あまりに「誰もが知っている」「ダイレクトに伝わる」にこだわりすぎる必要はないのではないかとも思う。

問われるのは「置いてけぼりにする」層を生む勇気

映画なのでもちろんテレビ番組とは前提が異なるが、たとえば『花束みたいな恋をした』には大量のカルチャー分野からのボキャブラリー引用がある。多くが老若男女みんなが知っているとは言い難いものばかりだ。

しかし、この作品で伝えたいことは、そこで引用されたアーティストや芸人を知っているいないで左右されることではなく、主人公二人の自意識だったり、未熟さだったりする。

自分が表現したいもの、伝えたい層にこだわりがあるのであれば、ある層を切り捨てたり、置いてきぼりにする勇気を持つべきだと思う。