サッカーによる街おこしをグラーツで実践
木村 そうですね。そもそもパルチザン・ベオグラードとユーゴ代表監督を退いた後、ギリシアのパナシナイコスに行ったのも、シュトルム・グラーツに行ったのも、サラエボに近いからという理由ですからね。当時はアシマさんとイルマさんがサラエボ包囲戦で閉じ込められていたから、とにかく近くにいたいと。
それに、僕はこれは後で知ったんですが、グラーツは“リトル・ユーゴスラビア”なんですね。
大野 そうなんです。本当にその通りなんです。
木村 西側で一番、旧ユーゴに近い都市なんです。当時、旧ユーゴ系の人が移民・難民となると、まず最初に行くのがグラーツだと。
そこには旧ユーゴの全民族のコミュニティがあって、皆が融和して、すごく仲良く生活している。それにはビックリしました。
大野 グラーツを選んだのは正解だったと、オシムさんから何回か聞きました。旧ユーゴの選手をチームに呼びやすいと言っていました。今回のお別れの会でも、あれだけ、ボスニアの外に住んでいるボスニア人が集まるという、それだけのコミュニティがあるということですよね。
木村 シュトルム・グラーツで監督を7~8年やって、チームは劇的に変わるわけです。チャンピオンズリーグに3年続けて出場して。それでビックリするんです、グラーツの人々は。特に3年目は1次リーグを1位で突破してベスト16に進んで、「シュトルム旋風を巻き起こした」と言われました。
これは、当時シュトルムの選手としてチャンピオンズリーグにも出場したポポビッチから聞いたのですが、チャンピオンズリーグの初年度から、「守りに入るんじゃなくて攻めて行け」と言われたと。「リスクをかけて戦えば、成し遂げることができるんだ」ということを、自分も含めてグラーツの市民が目の当たりにしたと、言っていましたね。
チャンピオンズリーグ出場で、お金もものすごく入ってきて、街が潤ったということも言っていました。ヨーロッパ中からサポーターが観戦に来るわけですから、ホテルも建つし。そのことによって街が豊かになっていくことを、グラーツ市民が実感した。「シュワーボはそれもわかっていて、俺たちを育ててくれた」とポポビッチは言っていました。
大野 サッカーで街おこしに成功したひとつの例ですよね。オシムさんとは、語りきれないほどいろいろなエピソードがありますが、もう1回、日本に来てほしかったというのは、やっぱりありますね。
木村 本当にそうですね。先ほど、倒れた後も日本代表の指導者をできたのではないかと言いましたが、やはりクラブチームで監督するオシムさんをもっと見たかったと思います。
代表はある意味で一発勝負ですが、そうではなく、キャンプから準備して、シーズンに入ってから長期間の戦いを、ほぼ同じメンバーで戦っていく。
Jリーグでオシムさんのサッカーを見ることによって、すごく大きなサッカーの普及、告知につながっていったんじゃないかなと思います。ジェフの監督時代、オシムサッカーを毎週観ることができたのは、本当に至福のときでしたからね。
大野 わくわくしましたね、本当に。
木村 リーグ全体がわくわく感をもった、あのサッカーをもう一度、観たかったですね。
前編 故・オシム氏「命を取るか、サッカーを取るか」知られざる家族の決断はこちら
写真/AFLO 撮影/苅部太郎