ボバンがスピーチをしたことの意味

木村 オシムさんのお別れの会が、今年5月4日にグラーツ、その後5月14日にサラエボで行われましたね。J2町田ゼルビアのポポビッチ監督のお嬢さんのアナさんが、グラーツのお別れの会に参列して、そのときの動画を送ってくれたのですけれど、本当に老若男女、サッカーが好きな人だけじゃなくて、いろいろな人が来て号泣している映像を観て、じつにオシムさんらしいなと感じました。

政治家でもなければ、巨大なビジネスを立ち上げた経済人でもなく、サッカー監督で、ここまでの求心力があったということ自体がすごいと思うんです。大野さんは、サラエボの葬儀のほうに参列されたんですね。

大野 はい。サラエボで「お別れの会」と葬儀とに参列させていただきました。お別れの会は、サラエボの旧市街にある国立劇場という立派な劇場で行われまして、サラエボ市長や、オシムさんと交流のあった選手や指導者たちが、何人も出てきて話をされました。

故・オシム氏「命を取るか、サッカーを取るか」知られざる家族の決断_1
ベストセラー『オシムの言葉』の著者であるジャーナリストの木村元彦氏(左)。ジェフ千葉の監督として来日した2003年よりオシム氏を取材

木村 ユーゴスラビア代表として、90年イタリアワールドカップに出場したメンバーが、ほとんどみんな揃っていましたね。

大野 そうですね。ピクシー(ストイコビッチ)もいましたし、カタネッチもいました。そして、ボバン(現UEFAフットボール部門責任者)がスピーチをしました。

木村 僕は、ボバンがスピーチをしたというのは、すごく意味深いなと思っているんです。オシムさん率いるユーゴスラビア代表は、90年のイタリアW杯のベスト8となって、その後、民族の対立により分断されていくんですけれど、イタリア大会の本大会には、ボバンは呼ばれていないんですよね。

直前の90年5月に、ザグレブのマクシミル・スタジアムでの暴動でボバンが警察に暴力をふるったことで、本大会には代表として呼ばれなかった。ボバンはその後、クロアチアの極右政党の支持者として、民族主義に乗る形で、クロアチア独立運動に政治的に進んでいったわけです。

オシムさんたちは、それをなんとか押しとどめて、最後まで民族融和のユーゴスラビア共和国で行きたいという立場で選手たちを説得していた。『引き裂かれたイレブン』というドキュメンタリーでもオシムさんは指摘していますが、両者の政治的立場は大きく違っていたわけです。にもかかわらず、ボバンがメッセージを発したというのは、すごく意義深いことだと、あらためて思いました。