極右=侮蔑のためのレッテル?
極右とは何か。まず確かなことは、「極右」とは、その文字の強さゆえ、論争を呼ぶ概念だということであろう。それゆえ「極右」と呼ばれる当事者側はしばしばこのレッテルを忌み嫌う。参政党の神谷代表も例に漏れず、ドイツの政党AfDを例に挙げ、「極右政党とか言われていますけど、中身は極右でもなくて純粋なナショナリズムですよね」と語っている。
「国民を第一に考える政治をして何が悪い」、「全体が左傾化しているから当たり前のことを言うだけで極右になる」、「支持しているのは普通の人々」――こんな声に押されてか、日本国内の大手報道においては参政党をどう位置づけるかについても表記が統一されていない。そこには「極右」と名指しすることに慎重な姿勢が見受けられる。
現在の日本の「極右」定義の混乱に先行して、この言葉の定義は欧州の政治学でも長らく議論を呼んできた。「極右」か「右翼」か、「右派ポピュリズム」か「急進右派」か、それとも「ファシズム」か、「ネオファシズム」か。フランスでも、この「極右」レッテルは長らく論争の火種だった。その典型的な例が、マリーヌ・ルペン率いる「国民連合」を極右と呼ぶか否か、という問題である。
国民戦線を率いた父ジャン=マリー・ルペンの過激なイメージから距離を置こうとしたマリーヌ・ルペンは、「極右」という呼称を「侮辱的だ」として一貫して拒否してきた。2010年代以降は、自身の党を「極右」と呼ぶものに対し、名誉毀損だとして法的措置をも辞さない態度を示してきたほどである。
実際彼女は極右のイメージを脱するため、父・ジャン=マリー・ルペンを「反ユダヤ主義的発言」を理由に党から追放したり、党の名前を「国民戦線」から「国民連合」に変更したり、また露骨な差別発言を公にすることを避けたりして、党の刷新を図ってきた。「このように穏健化した政党は、もはや極右とは呼べないのではないか?」、「マリーヌ・ルペンは極右ではなく単なるポピュリストの愛国者ではないか? 」こうして一部のメディアや論者は「極右」について語ることを避けるようになった。マリーヌ・ルペンの「脱悪魔化」(*3)戦略は功を奏したのである。
しかし、こうした問題をめぐる議論を経て、近年のフランスでは「極右」という語の用法について一定の整理が進んできたと言えるだろう。2024年3月には、フランスの最高裁に相当する国務院(Conseil d’État)が「極右」ラベルを不当な差別的扱いだと訴えた国民連合に対し、同党を「極右」と分類することは妥当であるとの判決を下している。
「極右」と聞いて、あなたはどんな姿を想像するだろうか。ヨーロッパのネオナチに典型的な、スキンヘッドに黒装束、編み上げブーツといった出立ちだろうか。それとも日本の街頭宣伝右翼のように、隊服を着て、旭日旗を振る活動家だろうか。あるいは、特定の人種や民族に対して露骨に人種差別的なヘイトスピーチをしたり、時に暴力に訴えるような集団だろうか。
しかし極右を厳密に定義するにあたって、このような外見的特徴や直感――すなわち「歩き方や鳴き声」で判断するようなやり方――では、政策の中核にある思想を見落とす危険がある。現実には「羊の皮をかぶった狼」(見落とされがちな極右)もいれば、「狼の皮をかぶった羊」(過激に見えても実際には極右でない政党)も存在するからだ。
まずはこの「極右」という用語の定義を明確にすることが重要である。この言葉は必ずしも「侮蔑的なレッテル」として用いるためのものではなく、議論の前提を共有し、データの蓄積を参照することで、時代・地域を超えた比較を可能にするものだ。
なお、以下で紹介する欧州で広く受容されている極右の定義は、西ヨーロッパに偏ったサンプルに基づいている点には留意されたい。また「右」や「急進」といった概念は、国ごとの政治文化や制度によって相対的に見える場合があることにも注意しなければいけない。ここではノルベルト・ボッビオ(*4)に従い、「平等に対する態度」を左右の判定基準とする。すなわち、左派はより大きな平等を志向し、右派は一定の不平等を受容または擁護する。この基準は、国ごとの相対性をある程度回避し、私たちに共通の議論の出発点を与えてくれる。
*3 フランス極右の脱悪魔化(dédiabolisation)とは、国民戦線時代の「悪魔的」イメージを払拭し、体制内政党として受容されることを狙ったマリーヌ・ルペン以降の正常化戦略を指す。この戦略については後の連載回で詳しく扱う。
*4 ノルベルト・ボッビオ(1909-2004)はイタリアの法哲学者・政治哲学者。『右と左: 政治的区別の理由と意味』などの著作で知られる。













