問題視すら許されない「能力」—「ご機嫌」「しあわせ」「怒らない技術」
抽象化、汎用化を経て、もはや「能力」は神格化レベルに入っている。
そう私は感じています。テストでいい点数をとり、よい学校へ入る。そんな分かりやすい「学力」から、気づけば「人間力」という何かを言っているようで何も言っていない、中身がよく分からない「生きる力」などの「能力」養成へ、という系譜を辿ったことは、教育社会学の研究から見てきました。
それが今や「センス」や「美意識」「リーダーシップ」「アントレプレナーシップ(起業家精神)」、はたまた「ウェルビーイング」などなど、「能力」次第で人生の取り分を決めると豪語するわりには、何をもってそれが高いのか・低いのかも分からなければ、仮に測定・評価され、「あなたは『リーダーシップ』が足りない」と言われたところで、何をどうすべきかよく分からないものが台頭してきています。
「ウェルビーイング」なんて、もはや「イルビーイング」もあるのかよ! とツッコミたくなるのは私だけでしょうか。人間は調子がよいときもあれば悪いときもあるものです。それをもコントロールできることを求めるのは、神の領域ではないでしょうか。
加えて昨今では、「機嫌」なんてのも、おっかないなぁと思って世論を眺めています*4。機嫌よくいろ、とは言うものですが、いつ何時も、となると、ことばの響きとは裏腹に非常にマッチョな話。
他者や自分の機微に気づき、心を痛めたり、それに対して何かせねばと心を燃やすことや、たとえうまく行動できなくてもメラメラと闘志を燃やすことなどなど……しかめっ面になってしまうときだって、誰の人生にもあります。
そんなときですらも、「機嫌よくいろ」と言うのは、相手を黙らせるだけではないでしょうか。神学者で東京女子大学学長の森本あんり先生も『不寛容論』の中で「『相手を心から受け入れ、違いを喜びなさい』というポストモダンのお説教」と表現しており、誠に溜飲が下がります。
その不寛容さ、非現実さを批判しようものなら、それすらも「だからお前はダメなんだよ」と言われそうなのも、実におっかない。
社会問題を深刻に捉える、真剣な解決を目指すこと自体が忌避されているきらいすらあるように私は思うのです。「怒らない技術*5」なども結構なことですが、個人がいつもご機嫌で、目くじら立てないことが推奨されてしまうと、本来見直されて然るべき社会の構造や政治的な問題はどうなってしまうのか、とても気がかりです。
このようにして、人として当たり前の感情すらも個人のコントロール下に置かれ始めている「能力」。
あれが必要、これが必要と、要請されることには終わりがなく、個人は「能力」獲得に向け、右往左往。真面目であればあるほど、自分の責任・問題であると考え、構造的な問題からは目を逸らさせる格好の逃げ口上になっているとも言えます。
これでは体制側は当然、「能力主義」を手放そうとしません。人々の側も、薄々疑問は持ちながらも、当たり前のように社会の仕組みが「能力主義」的につくり込まれすぎているため、従わない手立てはそうそう見当たらないのです。
文/勅使川原真衣
脚注
*1 中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、2018年、22〜23頁。
*2 「特別企画:企業が求める人材像アンケート」帝国データバンクホームページ、2022年。
*3 「Z世代(26歳以下)の就業意識や転職動向」リクルートホームページ、2023年。
*4 秋田道夫『機嫌のデザイン』(ダイヤモンド社、2023年)など。
*5 嶋津良智『怒らない技術』Forest2545 新書、2010年。













