性懲りもなくいっそう蔓延る「能力主義」
そもそも仮構的な概念であるのに加えて、実は身分制度に負けず劣らず出自の影響を強く受けた、不平等な配分原理だと教育社会学が指摘する「能力主義」。
止まらぬ抽象化や「新しい時代」の「新しい能力」、というレトリックが合わさり*1、その原理の不平等さはお咎めなしに私たちを脅かし、急き立てています。
それでも社会は決して「能力主義」を手放そうとはせず、また人々も、「能力」なんて知るもんか! とは言いません。
複雑化の一途を辿たどる「能力」
手放さないどころか、教育社会学が指摘してきた、求める「能力」の抽象化に輪をかけて、汎用化も合わせ技のようになっていると、労働の現場を眺めるたびに感じます。
例えばこちらの、帝国データバンクが行った「企業が求める人材像アンケート」結果*2(2022年)をご覧ください。「求める人材像」の上位はこんな様相だそうです。
調査が「すべてを兼ね備えた個人であれ」と言っているわけではないと分かりながらも、「求める人材像」と言われるとどうしても脳内で次のように変換してしまう方が多いのではないでしょうか—うまく話ができて、やる気があって、言うこと聞いてくれて、真面目で、かといって冗談が通じない奴ではなく……要するに「扱いやすい人」が企業はいいのね—と。
職場での活躍が、個人の「能力・資質」で決まるのならば、個人にこれらを求めるのは当然かもしれませんが、本当にそうでしょうか。
「人材開発」や「能力開発」を取りやめ、「組織開発」をしている私からすると、これは労働者に「能力・資質」として求めるものではなく、事業に必要な「機能」の羅列だと考えます。
必要な「機能」群を、いかにして持ち味の異なる者同士が持ち寄るか? という話なのだと思うのですが……そんな叫びは遠吠えのごとし。
個人は個人で、リクルート社の「Z世代(26歳以下)の就業意識や転職動向」調査結果*3(2023年)によると、「どこの会社に行ってもある程度通用するような汎用的な能力」を重視する学生が増えている。つまり、下手に尖ったり、専門性を推さずに、「扱いやすい人」という「能力」の汎用化を、若者自らが内面化していることが見て取れるのです。













