高市政権誕生前夜の暗闘
高市早苗にとって2025年10月4日の総裁選挙は3度目となる。安倍晋三のバックアップでとつぜん出馬した21年9月の総裁選で岸田文雄に敗れ、24年9月のときは決選投票で石破茂に逆転を許した。3度目の正直と言えば、もっともらしく聞こえるが、25年の総裁選挙は誰もが小泉進次郎で決まりだと考えてきた。
もとはといえば日本初となった女性の総理大臣誕生は、衆目の予想を超えた出来事だったといえる。
石破の退陣を受けたこのときの総裁候補は、24年の顔ぶれとさほど変わりがない。24年の候補者を挙げると、石破、高市、小泉、林芳正、小林鷹之、茂木敏充、上川陽子、河野太郎、加藤勝信。自民党史上最多となる9人が名乗りを上げた前代未聞の選挙だった。
石破と高市の決選投票の末、石破が勝利した。
そこから1年後の25年の総裁選では高市と小泉、林、小林、茂木が候補者として残り、石破はむろん上川、河野、加藤の4人が出馬をあきらめた。いきおい出馬断念組は候補者の応援にまわらざるをえない。ここでは旧来の派閥の変質や派閥内の確執が大きくものをいった。
平成研究会(旧茂木派)だった加藤勝信は無所属の小泉の推薦人代表となり、志公会(麻生派)の河野も小泉陣営に合流した。そうして小泉絶対有利の流れができあがる。
旧岸田派の宏池会に所属してきた上川は、本来、岸田派の事務長を務めてきた林の支援にまわっていいように思える。だが、そうはせず小泉に与した。実のところ上川が小泉陣営に加わった背景には、林と岸田の微妙な溝があるようだ。政界通が指摘する。
「もともと池田勇人のつくった宏池会は宮沢喜一や加藤紘一を経て、河野洋平が派閥を飛び出して古賀誠が領袖として派閥を引き継いだ。洋平さんは加藤と袂を分かち、河野グループ(大勇会)を結成して麻生先生がそこに加わった。そのあと麻生太郎が志公会を立ち上げ、加藤グループの谷垣禎一の有隣会が独立し、宏池会が分裂しました。
そうして近年は古賀と麻生が自民党内の勢力争いを繰り広げてきました。運輸利権を握っている古賀の力は大きかったけれど、政界を引退し、そのあとの永田町は安倍晋三に近い麻生の存在感が増しました。
また古賀の引退後は岸田が派閥を継いだけれど、長老の古賀は林寄りで、そこもうまくいかない。しぜん、林と岸田の二人には距離が生まれた。岸田政権で安倍派の政治資金問題が起き、林が松野博一との交代で官房長官に就いたのは、そのあたりを修正したからだともいわれていますが、やはりしこりは残っています」
25年の総裁選には前年の後遺症があった。前回総裁選に出馬した河野は、麻生太郎が長らく派閥のホープとして目をかけてきたが、このときは麻生の思い通りにことが運ばなかった。麻生派の重鎮議員による解説はこうだ。
「もとはといえば麻生先生は河野洋平先生のグループを継いだ意識があり、息子である太郎さんの面倒を見てきたのです。洋平先生は自民党総裁に昇りつめたけれど総理になれず、麻生先生にはそこに対する悔やみが残っています。
洋平さんの恩に報いるべく、太郎さんを引き立ててきた。けれど、前回の24年の総裁選で太郎さんを推してずっこけた。麻生先生にしたら、そうでもしなければ太郎が派閥を割って出るので派内に引き留めておくためには仕方がない、という判断でした。けれど、石破や小泉に比べて太郎さんの影は薄く、大惨敗でした」
24年の総裁選における河野太郎には、22の議員票と8の党員票を合わせてわずか30票しか集まらなかった。立候補するためには推薦人が20人必要であるため、そこを麻生派で埋めたかっこうだが、そのあとがまったく伸びず、候補者9人中8位に沈んだ。そんな体たらくだから河野自身は次の総裁選に出られるわけもなく、小泉を推した経緯がある。
一方、麻生太郎は24年の総裁選でさすがに河野太郎では闘えない、と選挙の途中からあきらめたようだ。だが、最終的に決選投票で誰を推すか方向性が定まらず、選挙戦略に欠いた。その迷いの裏には、石破だけは避けたい、という思いがあったからだ。
麻生は2008年9月から09年9月まで首相を務めたが、09年の衆院選の敗戦により、自民党内で麻生おろしが始まった。このとき石破は農林水産大臣の閣内にありながら、麻生おろしに加担し、本人の逆鱗に触れたとされる。
その恨みは今もって消えず、24年の総裁選で石破が有利だとわかっていても、擁立に傾かなかった。挙句、最終盤になって高市を担ごうとした。別の麻生派幹部が内幕を明かす。
「前回の総裁選の麻生さんには、石破嫌いという理由だけでなく、菅(義偉)さんとの因縁もありました。安倍政権時代、同じ安倍総理を支える菅さんと麻生さんは水と油でした。小泉さんも菅さんの息がかかっているので推したくない。そのせいで、河野太郎をあきらめて慌てて高市を担ごうとしたのです。
けれど、麻生さんと高市さんはほとんど知らない仲で、力が入らない。そうして結局、石破さんが決選投票で自民党総裁ポストを射止めたわけです」
石破勝利の裏には、菅の作戦に加え、菅・岸田連合の結成があったと伝えられる。
神奈川2区(横浜市西区、南区、港南区)選出の菅は、かねて同じ神奈川選出の河野太郎(神奈川15区)と小泉進次郎(同11区)の2人に対して「将来の総理候補」と評価し、後ろ盾になってきた。
わけても小泉は菅の第二次安倍政権時代の官房長官時代、真っ先に滝川クリステルとの婚約を報告したほどの間柄だ。さらに自民党青年局長時代の2012年9月には、安倍と石破が争った自民党総裁選で石破に票を投じるなど、石破との関係も悪くない。それだけに24年の総裁選当初の菅は、石破と小泉を天秤にかけていると囁かれたくらいである。
そしてこのときの総裁選は結果として、小泉の党員票が思ったほど伸びず、石破と高市の決選投票になる。1回目の投票を見ると、議員票では小泉の75がトップに立ったものの、高市が72と迫っている。石破はわずか46だったが、問題は党員票だったといえる。党員票で高市が109と石破をかわし、下馬評の高かった石破は108と2番手、人気者のはずの小泉は61で3位と落ち込んだ。
トップとなった高市の党員票については、まさしく昨今の自民党員のあり様を示していた。次の総裁選を予見していたともいえる。そこは後述するとして、議員と党員を合わせた1回目の総裁選の獲得順番でいえば、高市が181に伸ばし、2位の石破の154に大きく水をあけていた。
だが、そこから2人の決選投票になると、菅は小泉陣営はもとより岸田とも連携して石破を担いだ。周知のように決選投票の党員票は、47の都道府県それぞれが1票ずつとなり、獲得数における比重が低くなるので、議員票が勝敗を決める。
おまけに47都道府県の党員票でも石破26、高市21と逆転し、さらに議員票では石破が189と高市の173を上回った。総数で見ると、石破の215票に対し、高市は175票で、石破が勝利したのである。
最終的に石破が勝利した裏には、林陣営が加わった岸田派の取りまとめがあったとも、さすがに高市では危ういという国会議員の見識が働いたともいわれる。そのどちらも正しいのであろう。麻生自身は菅や岸田に煮え湯を飲まされたわけである。
麻生にとってこの24年の自民党総裁選は、苦い経験というほかなかった。総裁選投開票当日の9月27日夜には、麻生派の主要幹部が都内のレストランに集結してやけ酒を呑んだ。だが、さすがにその場では不機嫌な派閥の領袖に対し、選挙戦略の欠如を訴える議員などはいない。領袖はこう吐き捨てるのが精いっぱいだった。
「河野太郎を担がなければたぶん派閥を割って出馬しただろうから、あれはあれで仕方なかった。岸田が石破に乗ったのは意外だったが、岸田に初めからそんな戦略を練る知恵などないだろうからな」
自民党総裁選翌月の2024年10月に第一次内閣を発足させたその石破茂は、意気揚々と衆院の解散総選挙に踏み切った。だが、国民が石破を信任していたわけではない。まして党内に旧安倍派を中心とする獅子身中の虫を抱える宰相は、党をまとめきれず足元がふらついた。
石破は自民党幹事長の森山裕を頼る以外になかった。勢力を拡大するため新人議員に10万円の祝い金を配り、党内の声に押されて総選挙の公示直後に非公認とした派閥パーティの裏金議員の政党支部に2000万円もの政党助成金を振り込む始末だった。
そして政治とカネ問題の逆風がおさまるどころか、ますます強まり、自公の与党は衆院過半数割れに追い込まれる。案の定、石破政権は総選挙で大負けし、自民党政治が溶解していく。自民党はそこから翌25年6月の東京都議会選、7月の参議院選とトリプルで連敗を重ね、石破おろしが始まって自民党全体に危機感が走った。
もっともこのときの自民党内の受け止め方はさまざまだったが、大別すると2つあった。
「70年続いた保守・自民党による55年体制の終焉」
「参政党をはじめとした新興の保守票を奪われた結果だから、それを取り戻せばいい」
さしずめ現高市政権を支える国会議員は後者の声をあげていた。
なにより前回の総裁選で一敗地にまみれた長老の麻生太郎にとって、石破政権の弱体化は好都合だったかもしれない。2025年10月の総裁選では、思い切った勝負手を打つことになる。













