「地方」は大学進学が前提ではない
簡単にまとめよう。宮崎県では県庁所在地の宮崎市であっても、大卒は「当たり前」ではなく、その他の市町村であれば、むしろ「珍しい」存在となりうる。
宮崎市であれば、日常的に大学生を目にする機会もあるが、宮崎市から離れれば離れるほど、そうした機会は少なくなる。宮崎県の町村で暮らす子どもたちは、自分の親や兄姉が大学へ通っていなければ、大学という存在を意識することなく生活していくことが「当たり前」になる*5。
身近に大学や大卒が少ない地域であれば、「将来のやりたいこと」が大学と結びつかないことは十分考えられる(むしろ、その方が「自然」である)。
大学進学を見通さずに高校選択をするため(「家から近い」「就職に強い」など)、「普通科の進学校」といった大学進学のトラッキングに乗ることも少なくなるだろう。
そして、高卒(非大卒)の保護者はその地域で生活者として、労働者として現に暮らしているのである。
「地方」で暮らす高校生やその保護者が、「無理して大学進学する/させる必要はない」と判断することは、非合理的な選択ではないだろう。
大学進学を想定せずに暮らすこと、「大学進学しない」進路選択をすることが「自然」な地域があることをふまえずに、大学進学率の「格差」を声高に叫ぶならば、「大学進学しなければならない」という圧力を無闇に強めてしまうおそれがあることを筆者は懸念している*6。
それは大卒が多い地域を基準にしており、そうした圧力によって不利益を被るのは、大学が身近ではない地域の人々である可能性が高い。
「だから大学進学の地域間格差が生まれても仕方ない」と言いたいわけではない。問題にしたいのは、「(○○)大学で学びたい」と思ったときに、その教育機会を制限している社会的条件は何か、ということである。
在住している都道府県の大学収容率、居住地の近隣に設置されている大学の有無、大学進学へ向けた高校教育の内容、保護者の学歴や教育方針といった諸条件が大学進学へ影響。「地方」ではこうした諸条件によって、本人の学業成績や大学の入学難易度とは別次元の進路選択の流れが形成されている。
このことを社会学者の吉川徹は「ローカル・トラック」と呼ぶ。
脚注
*1 在学の人々、卒業学校不詳の人々は除いた値である。
*2 専修学校・各種学校は、入学資格や修業年限に応じて、各区分に計上されている。ただし、2006年までの卒業者は「短大・高専」に含まれている。
*3 宮崎県も、若い世代ほど大卒割合が増える傾向にあり、宮崎市の20・30代は男女ともに「短大・高専」と「大学」の割合が過半数を占めている。
*4 Yahoo!の乗換案内で8時30分に宮崎駅へ到着するよう設定した(2025年4月7日調べ)。
*5 筆者が宮崎県に来た頃、無意識のうちに「大学は行くもの」と思いながらコミュニケーションしており、自分の「当たり前」を反省することがしばしばあった。
*6 そうした圧力により「大学進学しなければならない社会」になったとしても、結局大学が身近でない地域は不利なレースを強いられるだけで、息苦しさは続くように思われる。













