「血」を否定する秀吉
いっぽう秀吉の場合は、もちろん元からの家臣団も持っていませんが、一門となる親類もいませんでした。だから豊臣家というものを成立させていくために、非常な苦労をしたことでしょう。そうした中で秀長という人は、まさに血縁者として、親類の代表格になる存在だったはずです。
秀吉は、その秀長をどう処遇したか。「血がつながっている弟なのだから大切にして当たり前だろう」という考え方はもちろんあり得ます。しかし、秀吉という人は「血縁」を絶対的に重視すべきものとは考えていなかったのではないか。そう考えさせられるエピソードがあるのです。
これは宣教師のルイス・フロイス(1532年~1597年)がローマに送ったレポートに出てくる話ですが、秀吉が天下人になってから、「天一坊が現れる」という事件がありました。天一坊とは、今の若い人であれば聞いたことがないかもしれませんね。徳川吉宗(1684年~1751年)の時代に現れた、将軍の隠し子を自称した人物です。
吉宗は将軍になるべくしてなった人ではなくて、偶然が重なって将軍にまで上り詰めた人です。そのため、まさか自分が偉い立場になるとは思わず、それ以前は自由に振る舞っていました。女の人との間にも、密かに子どももつくっていたらしい。その吉宗が将軍になると、その吉宗の子どもだという人物が名乗り出てきました。「私は将軍の御落胤である」。そう称した天一坊です。
この天一坊事件は、大岡越前守(1677年~1752年)が見事に「偽物だ」と裁き、処断されたという話になっています。もっとも大岡越前守が関与したという部分はフィクションなのですが、秀吉にもまた、この話と似た事件がありました。
ルイス・フロイスのレポートによると「自分は大政所の子供で、秀吉様の弟である」と名乗り出た人物が現れたといいます。大政所は秀吉のお母さんですね。秀吉にしてみると、捨てておくわけにはいかない。その若い男を連れてきて、大政所がいる前で謁見(えっけん)した。それでお母さんの反応を見ていたら、すごく気まずそうに顔を逸らした。それで秀吉は「この男は事実、お母さんの子だ」と直観したらしいのですね。
秀吉はまだ若いときに家を出ています。継父の竹阿弥と折り合いが悪かったと言われますが、その後、大政所、当時の仲さんは竹阿弥と死別か生別かわかりませんが、別れてしまっていたらしい。
当時、女性は弱い立場にありました。一人で生きていくということはなかなかできず、頼る旦那がいないと暮らしていけない。秀吉は家を出てしまっていたので知らずにいましたが、仲さんは、竹阿弥と別れたのちに他の男性のもとに嫁に行っていたのではないか。それで生まれた子どもが、今回名乗り出てきた男。
それで秀吉が、「俺の血を分かち持っている人間がいたのか」ということで、その男を重く用いるとか、側近くに置いたりしたのかというと全然違います。秀吉は男を捕まえて首を切ってしまった、とルイス・フロイスは書き送っています。
しかも秀吉は「どこかにまだ俺の弟や妹がいるのかもしれない」ということで調査を行った。その結果、尾張の中村、彼の故郷の近くに、どうも仲さんが産んだと思われる姉妹がいることを突き止めた。
それで彼女たちを自分のもとに呼び寄せます。姉妹は農民として貧しい暮らしをしていたのですが「出世したお兄ちゃんが呼んでくれている。我々も貧しい境遇から抜け出して豊かな生活が手に入る」と、大変に喜んで出かけていきました。しかしやっぱり、捕まって首を切られてしまいます。
もちろんルイス・フロイスの記述がどこまで本当であるか検討の余地はあります。しかし、理由もなく否定するのはおかしいし、この話は非常に示唆的です。秀吉には「血がつながっていれば大事にする」というところが、まったくないらしい。













