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北政所(きたのまんどころ 1548~1624)
幼名はおね。高台院。豊臣秀吉の正室。14歳で秀吉の木下藤吉郎時代に嫁ぎ、夫の立身出世をサポート。子供に恵まれず、加藤清正や福島正則たちの親代わりを務める。秀吉が関白就任後は北政所と呼ばれる。後に側室淀君が大坂城に入ると、京都に移り住む。関ケ原の戦いで徳川側についたため、終生家康から厚遇を得た。 

前田利家をソデにして秀吉を伴侶に選ぶ

北政所とは豊臣秀吉の正室のおねのことである。尾張織田家の足軽・杉原定利の次女で、母は木下家利の娘である。織田信長の家来の浅野長勝に養女として育てられた。

養父の浅野長勝と親しかった前田利家が「おねを嫁にくれ」と申し出たが、どういうものか長勝は承知してくれない。

困った利家は、「なぜ自分の願いを長勝は受け入れないのか。自分はどうしたらいいだろうか」と今度は木下藤吉郎時代の秀吉に尋ねた。

関ケ原の戦いの陰に潜む女のバトル「淀殿にくっついているやつなんかに味方するんじゃないよ」秀吉の正室・北政所が徳川家康についてみせた意地_1
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すると秀吉は「おねには約束した者がいるからだ」と聞き捨てならないことを言う。

利家が気色ばんで「そいつは誰だ?」と聞くと、「実は拙者だ」と返した。みんな秀吉の噓であった。だが、利家はそれを真に受けて、「それでは拙者が仲人になろう」と申し出たのだった。

結局、おねは前田利家をソデにして秀吉を選んだ。二人の結婚は盟友柴田勝家から信長へ伝えられ、信長から許された。秀吉25歳、おね14歳であった。

貧しかった秀吉は、新婦をスノコの上に藁を敷いて迎え、欠けた茶碗で固めの盃を執り行った。おねは結婚後、秀吉によく仕えよく耐えたが、秀吉の女好きが度を越した時には「スノコの上で、欠け茶碗で式を挙げたことを忘れなさるな」と釘を刺していたといわれている。

天正十三年(一五八五)、秀吉が関白の位を得ると、おねは北政所と呼ばれ、最後には三后に準じて従一位となる。太皇太后、皇太后、皇后を三后というが、三后に準じる従一位だから、女性としてはもうこれ以上の位はない。秀吉亡き後、北政所は京都で尼となり、秀吉の冥福を祈りながら亡くなった。